電脳トレモロ

君の囁きに合わせて、僕の電脳が震えた。

善意のハードコーディングよ、滅べ。

ここのところ募金関連の話題を読みあさっていて、仕事の合間にぼんやり考えてたことを纏める。また平行して善行について言及するブログも拝読させて頂いたのでそれとも絡めて善悪についてぼんやり書き綴った。

以下、拝読させて頂いたブログである。

id:luvlifeさんの
善意の経費+追記あり - 未解決の文字
募金関連の記事を読みあさるキッカケになった記事です。ありがとうございます。

あとそこからリンクのある匿名投稿の
ひろゆきの日本ユニセフ&アグネス叩きについてそろそろ一言いっとくか
を見れたのも良かったです。オチのひろゆき叩きは蛇足っぽくていまいちでしたが。

id:yarukimedesuさんの
スマホ捨てろ!街へ出ろ!席を譲れ!デブに席譲ったらブログのネタにしろ!レッツ善意を考えよう。 - ナカノちゃんねる
善悪について考えてみよっかなーというきっかけになりました。ありがとうございます。

id:tokunoribenさんの
日本ユニセフをネットで叩いて溜飲をさげる貧乏人たち - 拝徳
タイトルがアジテートだけど中身はかなり冷静に分析されてて参考になりました。ただ所々で煽りを入れてきていてその緩急のバランス加減が絶妙で気持ちがいいです。

特に気になったのはこのブログ。
id:fujiponさんの
僕は街頭募金が苦手だ。 - いつか電池がきれるまで
街頭募金が苦手だ、とおっしゃられている。共感するとともに最も思考の起点となりましたありがとうございます。

「募金が苦手だ」
この言葉をネットではなく実社会で述べた場合、その鋭さは会話のテンションを一気に上げることだろう。匿名な状況でなければネットですらこの言は憚られる。
なぜだろうかと、考えてみる。
これは人が善意を行使することを阻害する、最も大きな理由だと直感したからだ。

善は良し、という考え。

 まず根底にあるのがこれだろう。善行は良きことである。
 それは社会が与えられた天命であるかのように、シュプレヒコール然として僕たちの人生に横たわっている。母親は慈愛を教え、父親は卑劣を罰する、それがステロタイプな教育像だ。多様性はあるとは言え、大まかに捉えればそれが教育の輪郭である。今更、これを否定するつもりはないし、善行が良しという想いの原理は協調性に根ざしたものなので社会を語る上で無視することは出来ない。だがしかし、少し立ち止まって考えると「善」は結局は個人主義の範囲をどこまで広げたかの違いがあるだけでその本質は独りよがりである、ということに気付く。イスラムの若者達が善行として自爆テロを行うことや、一億円でひとりの命を助けることで助からなかった多くの命のことを考えてみると分かりやすい。結局は、当人のビジョンがどこまで広がっているかに過ぎない。

良しは偉い、という考え。

 そう考えると、社会において大多数に取って有用な行いをすることが良いこと、とされるのは自然な流れである。大多数の"個人"にとって利益のある行いをするのは、即ち個人が見ている世界に置いての優位性を担保するものだ。だから社会的に影響力のある立場の人間は、大多数の利益を見た目上でも取り繕うことを念頭に置いているのである。そうすると社会的に影響力のある者=善き行いをするものという図式が出来る。

偉いは悪、という考え。

 そこにきて起こるのが、大多数の利益(つまり善行)を振りかざす人間はろくな人間ではない、という考えである。これはある側面では正解である。社会的影響力を増す手段として上っ面だけで善行を行える人間が多いのも確かだ。その善行は所詮、手段であるため社会的影響力を持たなくなったとたんに止められることになる。だがしかし、その上っ面だけの善行でも救われた人がいる、という事実を忘れてはいけない。彼らは確かに誰かを救ったのだ。そこに利己的な対価が発生していたとしても非難出来るものではない。テレビタレントの人気を利用して利益を生み出すことと何ら変わりはないのだ。どちらも人の心に訴えかけて利益を出している。善がそういった市場原理から独立した尊いものであるという理想は大変立派ではあるがそうでない行為を非難出来るのは実際に市場原理から逸脱した言動した者のみであり、そんな人間はほとんどいないだろう。非難している人間も結局は同族嫌悪をしているだけである。加えて言えば、文句だけ言って何もしないよりは遥かに有益である。つまるところ平然と偽善を行える相手に嫉妬しているだけだなのだ。それが出来ない側のルサンチマンが"偽善"という言葉を生みだして用いただけの話である。

そんな風潮は滅べばいいと思う。

善行を利用はしたい人にはさせておけばいいし、利己的な善行は時に有益であるという考えをもっと広めるべきである。
 また善行を振りかざして尊敬を得ようとする人を非難する必要もない。
 世にとって、いや狭めて考えて自分に取ってよいことをしてくれる相手なら存分に行いをアピールさせてそれを誉め称えてあげればいいのである。そうすればもっと世の中は面白くなるし便利になるしいい方向に向かうと思う。肯定から立脚する思考はその逆よりも有益だと僕は考える。互いにどんどん肯定すればいいのだ。ただし思考停止の追従者に陥らないように注意する必要はあるが。
 それに僕みたいなクズ野郎は、どこまでいっても独善的で募金するぐらいなら自分の手が届く大切な人のために使いたいと考えてる人間だ。僕はそのステージで満足している。ゆえに大局的な社会の発展という観点がかけているだろうから、たとえ偽善であってもグローバリズムな視点で善行を行える人を両手放し賞賛している。会ったこともない相手にお金を使える人は素晴らしい。これは善の概念が生まれた当初の、「人と人が直接関わっていた時代」から考えると到底想像のできない行為である。例えそれが利己的な思惑によって生まれた行動であってもだ。そんな人間は確かにろくでもない人間かもしれないが、「人と人が直接関わっていた時代」を超えて新たな局面を迎えた人類社会を存続してくれるであろう有り難い同胞でもあるのだ。偽善はもっと歓迎されてしかるべきだ。彼らは確かに何かを動かしているのだから。

偽善は非難されるべきものではない

 偽善が非難の言葉として使われるのはそれが実際に社会にとって悪い結果を招いたときだけである。それは所詮、悪行と同じ論理で裁かれるに過ぎない。故にたとえ偽善でも結果的に誰かが幸福になっているのならばそれはやはり賞賛していいし、逆説的に悪行とされることでも結果的に社会の役に立っていれば賞賛されてしかるべきだ。善悪は社会において大多数の、あるいはそれを先導出来る立場の人間にとって都合がいいかどうかによってのみ決まることで、一皮むくとその姿は同じである。
 その考えに基づいてもう一度、善そして善行について考える。

善を考える

 結局は募金やボランティアも一つの利己的行為として他の行動と同列に置いて変に神格化したり腫れ物扱いしないようになればいい、と思っている。現代は利他的行為が無駄に付加価値を持っていてそこが色んな気持ち悪さの温床になっていると僕は思っている。
 たぶん共感出来る人は少ないかもしれないが、誰かの為に寄付をすることと誰かを騙してお金を得ることは本質的には一緒である。それは人間が「やりたい」と思った行為だ。その部分において両者は対等である。まずその考えがあって、そこから社会的大多数に取って利益があるかどうかの天秤があらわれた結果、後者(騙すこと)が非難されているだけなのである。
 その考えが念頭にあれば、「募金してそれが運営費に幾らか使われているから」といった怒りは沸かないはずである。

まとめ

 僕が望む世界は、善行がなんの特別な意味も持たない世界である。それはゲーセンやパチスロや風俗で散財するのと同じように募金が扱われて欲しいということである。一般的な消費行為、浪費行為として募金があればいいのだ。あるいは女の子をナンパするのと同じようにお年寄りに席を譲るとか、服飾で我が身を美しくするのと同じように公園を美しくするとか。
 つまり、行為の是非は当人の自由意志によってのみ定められるべきで、本来は社会が定めていいものではない。「社会によって善とされている」という事実が、ただやりたいことをやる、という想いに混ぜ物をしてしまっている気がしてならない。善行に「尊い行為」という印籠がなければ「やる価値がない」とするならば、善行はいつまでたっても人類の発展を阻害する目の上タンコブとして鎮座し続けるだろう。社会が善を強制する限り、人類はいつまでも進歩出来ない。それは「差別反対」という言葉がなくなってこそ真に差別がなくなったといえる、ということと同義だ。

でもそうしたら誰も善行しなくなるんじゃ?

 社会が強制した善行だからするのではなく、自分のやりたいことが結果的に他者にとっての利益となれるように「知識と思考と魂」を鍛え上げればいい。その為に人は学ぶ。それをせずに社会が用意した善行に安易に縋っているだけでは、知識が足りなくて予期せぬところで他者を貶めていたり、思考が足りなくて実を結べなかったり効率が悪かったり、魂が足りなくて自身の行いに苦痛を感じるようになる。それに打ち当たった人は善行を否定し嘲笑う。しかし善行はバカらしくも恥ずかしくも無駄でもない。そう思っている自身が無知で思慮が浅く脆いだけなのだ。

 ちなみに無知が非効率だっていう話は、id:web-kenさんのムードの奴隷になっちゃ駄目だ - 誰も知らない世界がある。が街頭募金の非効率性について述べていて参考になる。僕も街頭募金は非効率だとは思っているが、伝統があるので参加(実施者)の抵抗が少なく人員を募りやすいという優位性があるため当面はデファクトスタンダードとして君臨し続けるだろうとも思っている。
さらに id:kouas1100さんがやらない善よりやる偽善?おかしいでしょ! - 反社会的な中学生で述べられた。

僕は不登校やってるんだけど、クラスのお友達(笑)に、なんで来ないの?とか来いよ!とか言われたことがある。
それも偽善だよね。やる偽善だ。それに苦しめられた僕はやる偽善なんて賞賛できない。

これなんかも社会が押し付けた善行と無知と無理解が生んだ典型的な行為だ。「不登校児を学校に誘うのはいいことだ」という決め打ちをせずにid:kouas1100さんに対してより深く理解しようとしていれば他のアプローチもあっただろう。

このように善意や善行は社会によってハードコーディングされている。
そこから抜け出して各人が自らの目で培ったことを自らの手で行ってその結果としての善になるべきなんだよね。善ありきの行動じゃなく、行動ありきの善。
 それが実現しないなら人類は停滞し続け、社会のちょっとした舵取りミスが生んだ失敗のミルフィーユであっけなく滅びるだろう。

魂を鍛えるって

 「魂を鍛える」って意味わかんないよね。一応、僕の中での定義だと、知識は書物や映像で鍛えられるもの、思考は対話や何かを生み出すことで鍛えられるもの、魂は全ての事象の影響を受けるものって思っている。知識や思考より実践的身体的経験的要素が強いのが魂かな。例えば、田舎の田んぼ道を歩いてると不意に子供の頃に虫取り網を片手に全速力で駆け抜けていたときの情景が浮かんできて、その時の熱気とか汗の質感とか風を切るの気持ちよさがフラッシュバックして胸の辺りが変な浮遊観に包まれたあと無性に鼻の奥がむず痒くなる。そういうのを司ってるのが魂。感覚とか感性とかそういう感じの。(そうゴーストがささやくのよ)
 つまり魂を鍛えるってのは色んな経験をしろってことです。(おおざっぱ)