電脳トレモロ

君の囁きに合わせて、僕の電脳が震えた。

弱者というキョウキ

id:watakochanさんの
「不幸です!」「死にたいです!」という弱者権力 - 体調わる子の毒吐きブログ

を拝読させて頂いて思ったことをつらつらと書きます。

声を出せる弱者はそこまで弱くないんだよね

声を出している時点で自分の力を自覚している。
力を自覚出来てるってのは実は凄く強い。
所謂、確信犯ってやつだね。
確信犯は光が見えている。だから強い。自分の位置を知ってて何をすべきか分かってるんだ。
本当に弱っている人は光が見えない。真っ暗闇の中、なにをしたらいいのか分からずに、怯えてただしゃがみ込んでいる。本当に助けるべきはそういう人達なのだと思う。

僕の彼女もよく「死にたい」「何で私なんかと付き合ってるの」「実家がアレだから結婚できないし別れよう」とかとたまに言い出すので、「言ってるうちはまだ大丈夫」と思いながら話を聞いてる。そして頃合を見てシュークリームを買ってくると9割ぐらいは機嫌が直る。そうじゃないときは「甘いものなんかいらない。太らせる気か。お前は悪魔か」と怒られる。不条理だ。「何でそんなに怒るの?」「太陽が眩しかったから」人の怒りは往々にしてそういうものなのだろう。仕方なしに冷蔵庫にしまっておくといつの間にかなくなってる。たぶん座敷童子せい。

例えば人間関係に悩んでいる、といった具体的な理由があってそれが解決できそうなら対話しながら糸口を探るなんてことはする。
以前「仕事に向いてない。才能がない」って相談されたときは


「幸運の女神には前髪しかないっていうけど才能の女神はケツ毛しかない。だから才能ってのは自分では見れないんだ。ただ君がキバったときにしっかりと君を守ってくれるそれが才能なんだよ。そして頑張ってる子には時たまウンをつけてくれるんだ」


というアドバイスをした。
ウソだ。そんなことリアルでいってる人が居たら頭にネリ消しつまってると思う。幾ら親しい仲でもそんなふざけた台詞言われたら目を狙いたくなるだろう。一応、実践的で役に立つことを言っといた。曲がりなりにも同業者だし。
けれど「死にたい」ってのは複合的な因子が組み合わさって結んだ像みたいなもんだ。色々端折って言ってしまえば、ムード。だから解決することが出来ない。ムードにはムードでしか対抗できない。だから笑わせたりおいしいものを食べたりしてムードを塗り替えることが重要なんだよね。
ただ彼女と僕の笑いのセンスが全く違うのでこれはあまり得策じゃない。例えば、同じ映像を見てても全く違うところで爆笑しあってる。たぶん僕がずれてるんだとおもう。テレビって笑いポイントで分かりやすく効果音だすけどそれと全然関係ないとこで笑ってることが結構ある。一度「そんなとこで笑えるとか人格障害あるんじゃない」って、よく考えるとあんまりにも酷いことを言われたことがある。
そういえば以前、彼女に「味玉とゆで玉子を食べる人の違い」ってのをやったら「ふざけんなくそが。クソつまらんし意味わからん」って言われたのでたぶん僕には落ち込んでる人をユーモアで笑かす才能はない。笑いを生業にしてる人はすごい。

閑話休題

「弱者権利」の前に「権利」を考えてみる。

そもそも権利というのは公共の福祉に反しない限り行使できるものだ。
少なくとも今の日本ではそう憲法で定められている。
なぜそうなっているか。それは権力が衝突したときにどちらを優先するか、ということを決める為にある。つまりより公共にとって価値のあることを優先するということだ。
公共の福祉は「危険な概念」ではあるが、その発想の基点は悪いものではない。
より多くの人を幸せに出来る選択を取る、という考えは絶対的正解ではないが相対的正解ではある。全ての人をハッピーに出来るプリキュアみたいな存在が人類に居ない限り、人類は「恐らく正解」という道をたどたどしく歩くしかない。しかしそうやってより社会的に価値のある正解を幾重にも積み重ねてきた結果、社会が発展し人類は繁栄した。間違いも当然たくさんあっただろうが、それ以上に正解があったからこそ僕はここでこうして酷い文章を書いていられる。
公共の福祉が危険なのは、一部の人の為に強引に利用された場合だ。為政者や権力者は適正に公共の福祉を考えていく必要がある。
「では公共の福祉が適切に扱われるにはどうすべきか」といった話は完全に脱線してしまうし、僕の手に余る内容なのでここでは扱わない。
公共の福祉の定義というのは本当に難しいのだ。

公共の福祉が難しいから弱者権力が歪な形で成立する

現代において弱者とは大多数である。これは疑いようもない事実だ。富の再分配が「完全な平等」を実現していない以上、持つ者と持たざる者の格差は数に反比例する。誰かがお金を儲ければ儲けるほど儲かってない人が相対的に増えていく。しかし、そうして数の増えた弱者達も富の再分配によって少しずつ裕福になっていく。かつては歯牙にも掛からなかったような平凡な立場の人々も声を上げることが出来るようになった。それはとてもいいことだと僕は思う。人類の発展の本質は社会の多様性を増してあらゆる危機に対処することだ。その点で、より多くの人の声が届くというのはとても重要なことである。
しかしながら、誰でも声が出せるというのは何でも言っていいということにはならない。弱者だろうと「公共の福祉」について考えなければならないのだ。けれどその「公共の福祉」を正確に捉えるのは非常に難しい。

弱者も強者も同じ目線で考える

例えば体の弱い子供を抱えた親が、そのこの為に専用道路を作ってほしいと言い出したとする。その道路は主要幹線道路を潰して作らざるを得ず、そんなことは到底許されない。これは極論だけれども、それに近いことがそこら中で溢れているように思える。
体の弱い子は確かに弱者だが、けれど社会においてはレアケースなのだ。そういう存在を見捨ててしまう社会は最悪だが、逆に大勢の他者を犠牲にしてまで対処していたら社会が回らなくなってしまう。故に社会に出来るライン、求めていいラインをしっかり見極めなければならない。それを見誤った存在がモンスターペアレントとか極度な人権擁護団体になるのだろう。レアケースの弱者に対しての強者もまた平等な社会の一員である、という考えが必要だ。

なぜラインを見誤るのか。

それは権力を行使する側の視野が狭いからだ。自分がこの主張をしたらされた方はどうなるのか、その視点がかけている。弱者が権力を振りかざすのが悪いのではなく、弱者の蒙昧さが悪いのである。いや、ともすればあえて目を瞑っている弱者もいるだろう。(これは邪推であってほしい)
弱者の権利を行使することで社会が停滞するならばそれは明らかにマイナスだ。苦しい境遇になってもぐっと堪えて一旦周りを見回してみる。すると、もっと辛い人や主張のせいで辛い境遇に陥らなければならない人がいるかもしれない。そういった人達の目線も含めて自分の権利を行使していけるようにしなければならない。強者も弱者も関係がない。互いにそういった目線で考えることが出来れば社会はより素晴らしい者になるだろう。

けれども

それが出来る聡明な人は結構いる。いや、聡明過ぎてそのまま死んでしまう人がいる。社会の利益を考えすぎて自分を蔑ろにしてしまう人だ。それだけは止めてほしい。貴方も大切な社会のひとりなのだ。そういった愚直なまでに聡明な人こそ社会が助けるべき本当の弱者なのだと思う。
武士に「喰わねど高楊枝」を強制する社会は全うじゃない。