電脳トレモロ

君の囁きに合わせて、僕の電脳が震えた。

怒りを殺す。

漫然とした怒りを感じている。


僕は僕が憎いのだろうか。


この怒りの諸元が見つからない以上、その怒りは僕に内在するのだろう。


今日、ダンサーインザダークを見た。


もう五回ぐらい見ているのに号泣してしまった。


一緒に見ていた人は、この映画が嫌いだといった。


当然だろう。この映画は嫌われて然るべきなのだ。


この映画は狡いカタルシスを押し付けてくる。


こんなモノに心を動かされるなんて脆弱な精神もいいところだ。


そんな戒めを片耳に留めながら僕は泣く。


強靭なる現実との対決法を示されているようで、


それに従えない自分に苛立ちを感じながら僕は泣いている。


セルマの歌声が僕を貫く。


僕には出来るだろうか。


怒りも悲しみも超えた先で高らかに歌うことを。


絶望の中で怒りに捕われることなく


楽しさに耽ることが


出来るだろうか。

反撃してもしなくても平和にはならない。

id:fujiponさんの
16歳の女の子が語った「勉強することの意味」 - いつか電池がきれるまで

id:honeshabriさんの
【雑記】平和を望むならやり返せ - 本しゃぶり
を拝読させて頂いて思ったことを書いていきます。

均衡は平和を生まない

恐らく、id:honeshabriさんの言うことは均衡こそが平和を生むということなのでしょう。抵抗して力を見せることは確かに均衡をもたらすと思います。しかし、いちど力を見せてしまえばその力を維持する為に更なる投資が必要なります。そうして一度乗ったパワーゲームからは抜け出せなくなるのです。反撃をすれば相手はそれに適うだけの力を付けてまた殴り掛かってくるでしょう。途中で相手が折れればいいですが、そう上手くいく保証は有りません。またそれに一度反撃してしまえば、その切っ先の鋭さを正しく扱うのは非常に難しく、逆にこちらが相手を破滅させるような行為に至る可能性もあります。

耐えていればつぶれてしまう。

ではやられるがまま許せばいいのでしょうか。
それも違います。id:honeshabriさんがおっしゃるように無抵抗であれば相手は増長します。寛大な心で看過しても、相手は改心しません。エスカレートするのが目に見えています。
id:honeshabriさんがおっしゃるように、攻撃側がリスクなく自由に出来ると知ったらならば相手は思考を停止して好き放題するでしょう。その時点で一度立ち止まって「これはおかしい」と考え直せるだけの思考力があるような人間ははじめから虐げるようなことはしません。

因果の果てまで逃げよう

じゃあどうするか。僕は「逃げること」を提案します。
虐げられたら逃げましょう。どうしても我慢出来ない相手がいたらその場から逃げましょう。受け止めるのでもなく戦うのでもなく、逃げられる限り逃げる。これこそが平和をもたらすことだと僕は思っています。
虐めはされる側とする側が居なければ成立しません。される側が居なくなることこそ、する側を殺す行為なのです。
のらりくらりと攻撃をかわし続けてひょうひょうと生きていくのです。殴る側も殴られる側も苦しいのです。そのどちらでもない者だけが自由です。必死に逃げてそれでもどうしようもなくなったとき初めて「許す」か「殺す」かを選べばいいのです。
おそらくマララさんは逃げられない境遇に落ちいって出した答えが「相手を許す」だったのでしょう。そこまで追いつめられた人だけが答えを出せばいいのです。それ以外はどこまでも逃げたらいい。無駄に因果を背負う必要はない、と僕は思います。
最初から「許す」「許さない」なんて議論は要らないのです。
まずは逃げること、危機を回避すること。その過程で頼れるものはトコトン頼ること。司法も制度も資産も使えるだけ使うこと。
「許す」「許さない」の事態まで陥らせないことが大事なのです。
それでも被害を受けてどうしようもなくなったら、そこから先はどっちに転んでも結局は一緒で地獄しかありません。議論しても仕方がないのです。
「逃げられない」これこそが悲劇の元凶なのです。

逃げれるだけの力を付けよう

大戦中に能力のある科学者や技術者は比較的平穏な国に亡命しました。
そのように「いざという時に逃げられる力」を培っておくことこそが"個人の平和"にとっては必要なんだと思います。危機を察知して回避する力、被害を受けても最小限で留めて立て直す力、それでも駄目だったら心機一転全てをやり直せるだけの力、それらはおいそれと手に入れられるものでは有りませんが最も暴力を生まない力でしょう。
そして余裕があるならば「逃がす手伝い」をすることこそ個人が出来る僅かな平和への貢献だと思ってます。「相手を許しなさい」「なんで反撃しないんだ」という言葉より、そんな考えを必要としない場所へ連れて行ってあげることこそが虐げられた人にとって必要なことでしょう。僕はシンドラー杉原千畝氏こそ平和を体現した人物だと思っています。

世界平和とは別な話

ただこれは個人や極小さな集団の話であって民族や国家同士のような大きな闘争の解決は個人の思想や理念ではどうにもならないと思います。こればっかりは「他者を貶めなくても充足出来るリソースを平等に分け与えるという夢のような技術」が生まれない限り無理だと思います。
人の意思はそれほど脆弱です。
世界平和は議論するだけ無駄です。そんなことしてる暇があったら技術者になった方がいいです。

ネットで論争することはあんまり意味がない。

id:inujinさんの
僕らはみんな、間違っている。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
を拝読させていただいて思ったことなんかをつらつらと。

僕はブログをずっとやっていなかったので自分の意見をネット上でボッコボコにされた記憶は遠くの彼方なのですが、しかしそれでもぼんやりと思い出しつつまた外野から見てて思ったことも含めて書いてみました。

そもそも前提として叩きたい人がいる。

これは多分、有名な発言者はそういう目に合っているだろう。プロレスでいうところのヒールみたいに出てくるだけでブーイングが沸く。人気商売のプロレスならいざ知らず、純粋に情報発信をしたい人に取っては自宅の便所に落書きされるような不快さだろう。(何だそのたとえ)
まあ中にはその叩きすら面白がってる人もいるけど。そこら辺は情報リテラシー力というか煽り耐性というか、そういった場数をどれだけ踏んでるかと当人のそもそもの素質に影響する気がする。これはリアルの人生経験とは全く別のモノで、だからこそ政治界で上手く立ち回ってきた歴戦のおっさんとかがネットでは炎上したりする。
結局、発言者自体が嫌いだと、その内容がどうであれとりあえず叩かれるのである。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いわけだ。そういう相手には何を言っても意味がないし、その叩きは貴方の発言内容とは別の次元から発生したものだから気にしなくていい。その発言者が貴方好みの絶世の美少女/美少年でリアル直結出来る可能性があるのなら別だけれども。

叩いて優越感に浸りたい人もいる

これも多い。なぜだか知らないけれど議論に勝つことが神から与えられた使命であるかのように他人に議論を吹っかけたがる人がいる。しかもそういう人物は議論に負けることを極度に嫌うので負けても損失の少ない匿名を好む。叩いて勝つことだけを考えているので、議論を吹っかけられた側はひたすら困惑することになる。なぜなら議論の最終地点が「より良い考え」や「より面白い考え」ではなく「俺が言ってることが正しい」なので、そんな相手の意見をマトモに考えても仕方がない。
そしてそういう奴に限って手練手管に長けてるので攻撃された方は、「なに言ってるか分からねーが状態」になる。んでいつの間にか負け認定をされているのである。その一方的さは思春期の男達がするブス認定並みである。
そういったスタンド攻撃を受けた場合は無視するのが得策である。彼らの目的は結論ではなく勝利なのだから。そして幸いなことに無言を彼らは勝利だと思ってくれる。

そもそもネット上の議論は実は意味がない。

それでも極たまに、真剣に議論を吹っかけてくれる人がいる。そういう相手には真摯に答えるのも面白いのだけれど、結局その議論の結果を実践したとしても一緒に考えてくれた相手にフィードバックはされないんだよね。
そもそも議論って何の為にするかと言えば、その結論が影響を及ぼす同士が互いの主張によって生まれる利益を守る為にする行為なんだ。だからネットでの議論はあまり意味がないんだよ。
例えば、「人殺しはサイコー。是非やるべき」って意見が有ったとして、それに反論して実際に自分に取って意味があるのはそのぶっ飛んだ意見をもった人間が同じ町に住んでた、っていうレアケースの場合だけ。
結局、同じ位相にある場合だけが議論の意味を持つんだよ。だからネットで振られた議論に必死に頭をひねるぐらいだったら会社の会議で頭捻った方が十分役に立つ。ネットでの意見はあくまで戯れ言で面白半分の思考実験ぐらいに思っておけばいい。その程度でゆるく楽しむのがいい。


ネットでどれだけ叩かれようとも貴方が現実で培った尊さは否定出来ない。そして、ネットでどれだけ議論に勝っても貴方の現実での尊さは培われない。

楽しく死にたい

無重力のソラで果実っぽさばっかり際立った甘ったるいワインを飲んでいるような人生でございます。


時折、悲しくなります。


でもその悲しみを感じる部分こそが悲しいのだと、思っております。


楽しいことばかりです。


好きなことばかりです。


辛さは程よいスパイスであります。


ただもう、悲しい部分が悲しいということだけが


ただただ


ただただただただただただただ



悲しいのでございます。


去年別れた恋人は塩を嘗めるのが好きでした。


98度のウオッカを煽りながら塩を嘗めていました。


その様はまるで自殺のようでした。


でもとてもとても楽しそうでした。


そうして彼女は雪深い日に飛び出してそのまま消えました。


私もそうしたいのです。


そうして楽しく死にたいのです。


けれど、


雪が降りません。


雪が降りません。


雪が降りません。


雪が降りません。


だから私は今日もこうして甘ったるいワインを飲んでいるのです。

弱者というキョウキ

id:watakochanさんの
「不幸です!」「死にたいです!」という弱者権力 - 体調わる子の毒吐きブログ

を拝読させて頂いて思ったことをつらつらと書きます。

声を出せる弱者はそこまで弱くないんだよね

声を出している時点で自分の力を自覚している。
力を自覚出来てるってのは実は凄く強い。
所謂、確信犯ってやつだね。
確信犯は光が見えている。だから強い。自分の位置を知ってて何をすべきか分かってるんだ。
本当に弱っている人は光が見えない。真っ暗闇の中、なにをしたらいいのか分からずに、怯えてただしゃがみ込んでいる。本当に助けるべきはそういう人達なのだと思う。

僕の彼女もよく「死にたい」「何で私なんかと付き合ってるの」「実家がアレだから結婚できないし別れよう」とかとたまに言い出すので、「言ってるうちはまだ大丈夫」と思いながら話を聞いてる。そして頃合を見てシュークリームを買ってくると9割ぐらいは機嫌が直る。そうじゃないときは「甘いものなんかいらない。太らせる気か。お前は悪魔か」と怒られる。不条理だ。「何でそんなに怒るの?」「太陽が眩しかったから」人の怒りは往々にしてそういうものなのだろう。仕方なしに冷蔵庫にしまっておくといつの間にかなくなってる。たぶん座敷童子せい。

例えば人間関係に悩んでいる、といった具体的な理由があってそれが解決できそうなら対話しながら糸口を探るなんてことはする。
以前「仕事に向いてない。才能がない」って相談されたときは


「幸運の女神には前髪しかないっていうけど才能の女神はケツ毛しかない。だから才能ってのは自分では見れないんだ。ただ君がキバったときにしっかりと君を守ってくれるそれが才能なんだよ。そして頑張ってる子には時たまウンをつけてくれるんだ」


というアドバイスをした。
ウソだ。そんなことリアルでいってる人が居たら頭にネリ消しつまってると思う。幾ら親しい仲でもそんなふざけた台詞言われたら目を狙いたくなるだろう。一応、実践的で役に立つことを言っといた。曲がりなりにも同業者だし。
けれど「死にたい」ってのは複合的な因子が組み合わさって結んだ像みたいなもんだ。色々端折って言ってしまえば、ムード。だから解決することが出来ない。ムードにはムードでしか対抗できない。だから笑わせたりおいしいものを食べたりしてムードを塗り替えることが重要なんだよね。
ただ彼女と僕の笑いのセンスが全く違うのでこれはあまり得策じゃない。例えば、同じ映像を見てても全く違うところで爆笑しあってる。たぶん僕がずれてるんだとおもう。テレビって笑いポイントで分かりやすく効果音だすけどそれと全然関係ないとこで笑ってることが結構ある。一度「そんなとこで笑えるとか人格障害あるんじゃない」って、よく考えるとあんまりにも酷いことを言われたことがある。
そういえば以前、彼女に「味玉とゆで玉子を食べる人の違い」ってのをやったら「ふざけんなくそが。クソつまらんし意味わからん」って言われたのでたぶん僕には落ち込んでる人をユーモアで笑かす才能はない。笑いを生業にしてる人はすごい。

閑話休題

「弱者権利」の前に「権利」を考えてみる。

そもそも権利というのは公共の福祉に反しない限り行使できるものだ。
少なくとも今の日本ではそう憲法で定められている。
なぜそうなっているか。それは権力が衝突したときにどちらを優先するか、ということを決める為にある。つまりより公共にとって価値のあることを優先するということだ。
公共の福祉は「危険な概念」ではあるが、その発想の基点は悪いものではない。
より多くの人を幸せに出来る選択を取る、という考えは絶対的正解ではないが相対的正解ではある。全ての人をハッピーに出来るプリキュアみたいな存在が人類に居ない限り、人類は「恐らく正解」という道をたどたどしく歩くしかない。しかしそうやってより社会的に価値のある正解を幾重にも積み重ねてきた結果、社会が発展し人類は繁栄した。間違いも当然たくさんあっただろうが、それ以上に正解があったからこそ僕はここでこうして酷い文章を書いていられる。
公共の福祉が危険なのは、一部の人の為に強引に利用された場合だ。為政者や権力者は適正に公共の福祉を考えていく必要がある。
「では公共の福祉が適切に扱われるにはどうすべきか」といった話は完全に脱線してしまうし、僕の手に余る内容なのでここでは扱わない。
公共の福祉の定義というのは本当に難しいのだ。

公共の福祉が難しいから弱者権力が歪な形で成立する

現代において弱者とは大多数である。これは疑いようもない事実だ。富の再分配が「完全な平等」を実現していない以上、持つ者と持たざる者の格差は数に反比例する。誰かがお金を儲ければ儲けるほど儲かってない人が相対的に増えていく。しかし、そうして数の増えた弱者達も富の再分配によって少しずつ裕福になっていく。かつては歯牙にも掛からなかったような平凡な立場の人々も声を上げることが出来るようになった。それはとてもいいことだと僕は思う。人類の発展の本質は社会の多様性を増してあらゆる危機に対処することだ。その点で、より多くの人の声が届くというのはとても重要なことである。
しかしながら、誰でも声が出せるというのは何でも言っていいということにはならない。弱者だろうと「公共の福祉」について考えなければならないのだ。けれどその「公共の福祉」を正確に捉えるのは非常に難しい。

弱者も強者も同じ目線で考える

例えば体の弱い子供を抱えた親が、そのこの為に専用道路を作ってほしいと言い出したとする。その道路は主要幹線道路を潰して作らざるを得ず、そんなことは到底許されない。これは極論だけれども、それに近いことがそこら中で溢れているように思える。
体の弱い子は確かに弱者だが、けれど社会においてはレアケースなのだ。そういう存在を見捨ててしまう社会は最悪だが、逆に大勢の他者を犠牲にしてまで対処していたら社会が回らなくなってしまう。故に社会に出来るライン、求めていいラインをしっかり見極めなければならない。それを見誤った存在がモンスターペアレントとか極度な人権擁護団体になるのだろう。レアケースの弱者に対しての強者もまた平等な社会の一員である、という考えが必要だ。

なぜラインを見誤るのか。

それは権力を行使する側の視野が狭いからだ。自分がこの主張をしたらされた方はどうなるのか、その視点がかけている。弱者が権力を振りかざすのが悪いのではなく、弱者の蒙昧さが悪いのである。いや、ともすればあえて目を瞑っている弱者もいるだろう。(これは邪推であってほしい)
弱者の権利を行使することで社会が停滞するならばそれは明らかにマイナスだ。苦しい境遇になってもぐっと堪えて一旦周りを見回してみる。すると、もっと辛い人や主張のせいで辛い境遇に陥らなければならない人がいるかもしれない。そういった人達の目線も含めて自分の権利を行使していけるようにしなければならない。強者も弱者も関係がない。互いにそういった目線で考えることが出来れば社会はより素晴らしい者になるだろう。

けれども

それが出来る聡明な人は結構いる。いや、聡明過ぎてそのまま死んでしまう人がいる。社会の利益を考えすぎて自分を蔑ろにしてしまう人だ。それだけは止めてほしい。貴方も大切な社会のひとりなのだ。そういった愚直なまでに聡明な人こそ社会が助けるべき本当の弱者なのだと思う。
武士に「喰わねど高楊枝」を強制する社会は全うじゃない。

善意のハードコーディングよ、滅べ。

ここのところ募金関連の話題を読みあさっていて、仕事の合間にぼんやり考えてたことを纏める。また平行して善行について言及するブログも拝読させて頂いたのでそれとも絡めて善悪についてぼんやり書き綴った。

以下、拝読させて頂いたブログである。

id:luvlifeさんの
善意の経費+追記あり - 未解決の文字
募金関連の記事を読みあさるキッカケになった記事です。ありがとうございます。

あとそこからリンクのある匿名投稿の
ひろゆきの日本ユニセフ&アグネス叩きについてそろそろ一言いっとくか
を見れたのも良かったです。オチのひろゆき叩きは蛇足っぽくていまいちでしたが。

id:yarukimedesuさんの
スマホ捨てろ!街へ出ろ!席を譲れ!デブに席譲ったらブログのネタにしろ!レッツ善意を考えよう。 - ナカノちゃんねる
善悪について考えてみよっかなーというきっかけになりました。ありがとうございます。

id:tokunoribenさんの
日本ユニセフをネットで叩いて溜飲をさげる貧乏人たち - 拝徳
タイトルがアジテートだけど中身はかなり冷静に分析されてて参考になりました。ただ所々で煽りを入れてきていてその緩急のバランス加減が絶妙で気持ちがいいです。

特に気になったのはこのブログ。
id:fujiponさんの
僕は街頭募金が苦手だ。 - いつか電池がきれるまで
街頭募金が苦手だ、とおっしゃられている。共感するとともに最も思考の起点となりましたありがとうございます。

「募金が苦手だ」
この言葉をネットではなく実社会で述べた場合、その鋭さは会話のテンションを一気に上げることだろう。匿名な状況でなければネットですらこの言は憚られる。
なぜだろうかと、考えてみる。
これは人が善意を行使することを阻害する、最も大きな理由だと直感したからだ。

善は良し、という考え。

 まず根底にあるのがこれだろう。善行は良きことである。
 それは社会が与えられた天命であるかのように、シュプレヒコール然として僕たちの人生に横たわっている。母親は慈愛を教え、父親は卑劣を罰する、それがステロタイプな教育像だ。多様性はあるとは言え、大まかに捉えればそれが教育の輪郭である。今更、これを否定するつもりはないし、善行が良しという想いの原理は協調性に根ざしたものなので社会を語る上で無視することは出来ない。だがしかし、少し立ち止まって考えると「善」は結局は個人主義の範囲をどこまで広げたかの違いがあるだけでその本質は独りよがりである、ということに気付く。イスラムの若者達が善行として自爆テロを行うことや、一億円でひとりの命を助けることで助からなかった多くの命のことを考えてみると分かりやすい。結局は、当人のビジョンがどこまで広がっているかに過ぎない。

良しは偉い、という考え。

 そう考えると、社会において大多数に取って有用な行いをすることが良いこと、とされるのは自然な流れである。大多数の"個人"にとって利益のある行いをするのは、即ち個人が見ている世界に置いての優位性を担保するものだ。だから社会的に影響力のある立場の人間は、大多数の利益を見た目上でも取り繕うことを念頭に置いているのである。そうすると社会的に影響力のある者=善き行いをするものという図式が出来る。

偉いは悪、という考え。

 そこにきて起こるのが、大多数の利益(つまり善行)を振りかざす人間はろくな人間ではない、という考えである。これはある側面では正解である。社会的影響力を増す手段として上っ面だけで善行を行える人間が多いのも確かだ。その善行は所詮、手段であるため社会的影響力を持たなくなったとたんに止められることになる。だがしかし、その上っ面だけの善行でも救われた人がいる、という事実を忘れてはいけない。彼らは確かに誰かを救ったのだ。そこに利己的な対価が発生していたとしても非難出来るものではない。テレビタレントの人気を利用して利益を生み出すことと何ら変わりはないのだ。どちらも人の心に訴えかけて利益を出している。善がそういった市場原理から独立した尊いものであるという理想は大変立派ではあるがそうでない行為を非難出来るのは実際に市場原理から逸脱した言動した者のみであり、そんな人間はほとんどいないだろう。非難している人間も結局は同族嫌悪をしているだけである。加えて言えば、文句だけ言って何もしないよりは遥かに有益である。つまるところ平然と偽善を行える相手に嫉妬しているだけだなのだ。それが出来ない側のルサンチマンが"偽善"という言葉を生みだして用いただけの話である。

そんな風潮は滅べばいいと思う。

善行を利用はしたい人にはさせておけばいいし、利己的な善行は時に有益であるという考えをもっと広めるべきである。
 また善行を振りかざして尊敬を得ようとする人を非難する必要もない。
 世にとって、いや狭めて考えて自分に取ってよいことをしてくれる相手なら存分に行いをアピールさせてそれを誉め称えてあげればいいのである。そうすればもっと世の中は面白くなるし便利になるしいい方向に向かうと思う。肯定から立脚する思考はその逆よりも有益だと僕は考える。互いにどんどん肯定すればいいのだ。ただし思考停止の追従者に陥らないように注意する必要はあるが。
 それに僕みたいなクズ野郎は、どこまでいっても独善的で募金するぐらいなら自分の手が届く大切な人のために使いたいと考えてる人間だ。僕はそのステージで満足している。ゆえに大局的な社会の発展という観点がかけているだろうから、たとえ偽善であってもグローバリズムな視点で善行を行える人を両手放し賞賛している。会ったこともない相手にお金を使える人は素晴らしい。これは善の概念が生まれた当初の、「人と人が直接関わっていた時代」から考えると到底想像のできない行為である。例えそれが利己的な思惑によって生まれた行動であってもだ。そんな人間は確かにろくでもない人間かもしれないが、「人と人が直接関わっていた時代」を超えて新たな局面を迎えた人類社会を存続してくれるであろう有り難い同胞でもあるのだ。偽善はもっと歓迎されてしかるべきだ。彼らは確かに何かを動かしているのだから。

偽善は非難されるべきものではない

 偽善が非難の言葉として使われるのはそれが実際に社会にとって悪い結果を招いたときだけである。それは所詮、悪行と同じ論理で裁かれるに過ぎない。故にたとえ偽善でも結果的に誰かが幸福になっているのならばそれはやはり賞賛していいし、逆説的に悪行とされることでも結果的に社会の役に立っていれば賞賛されてしかるべきだ。善悪は社会において大多数の、あるいはそれを先導出来る立場の人間にとって都合がいいかどうかによってのみ決まることで、一皮むくとその姿は同じである。
 その考えに基づいてもう一度、善そして善行について考える。

善を考える

 結局は募金やボランティアも一つの利己的行為として他の行動と同列に置いて変に神格化したり腫れ物扱いしないようになればいい、と思っている。現代は利他的行為が無駄に付加価値を持っていてそこが色んな気持ち悪さの温床になっていると僕は思っている。
 たぶん共感出来る人は少ないかもしれないが、誰かの為に寄付をすることと誰かを騙してお金を得ることは本質的には一緒である。それは人間が「やりたい」と思った行為だ。その部分において両者は対等である。まずその考えがあって、そこから社会的大多数に取って利益があるかどうかの天秤があらわれた結果、後者(騙すこと)が非難されているだけなのである。
 その考えが念頭にあれば、「募金してそれが運営費に幾らか使われているから」といった怒りは沸かないはずである。

まとめ

 僕が望む世界は、善行がなんの特別な意味も持たない世界である。それはゲーセンやパチスロや風俗で散財するのと同じように募金が扱われて欲しいということである。一般的な消費行為、浪費行為として募金があればいいのだ。あるいは女の子をナンパするのと同じようにお年寄りに席を譲るとか、服飾で我が身を美しくするのと同じように公園を美しくするとか。
 つまり、行為の是非は当人の自由意志によってのみ定められるべきで、本来は社会が定めていいものではない。「社会によって善とされている」という事実が、ただやりたいことをやる、という想いに混ぜ物をしてしまっている気がしてならない。善行に「尊い行為」という印籠がなければ「やる価値がない」とするならば、善行はいつまでたっても人類の発展を阻害する目の上タンコブとして鎮座し続けるだろう。社会が善を強制する限り、人類はいつまでも進歩出来ない。それは「差別反対」という言葉がなくなってこそ真に差別がなくなったといえる、ということと同義だ。

でもそうしたら誰も善行しなくなるんじゃ?

 社会が強制した善行だからするのではなく、自分のやりたいことが結果的に他者にとっての利益となれるように「知識と思考と魂」を鍛え上げればいい。その為に人は学ぶ。それをせずに社会が用意した善行に安易に縋っているだけでは、知識が足りなくて予期せぬところで他者を貶めていたり、思考が足りなくて実を結べなかったり効率が悪かったり、魂が足りなくて自身の行いに苦痛を感じるようになる。それに打ち当たった人は善行を否定し嘲笑う。しかし善行はバカらしくも恥ずかしくも無駄でもない。そう思っている自身が無知で思慮が浅く脆いだけなのだ。

 ちなみに無知が非効率だっていう話は、id:web-kenさんのムードの奴隷になっちゃ駄目だ - 誰も知らない世界がある。が街頭募金の非効率性について述べていて参考になる。僕も街頭募金は非効率だとは思っているが、伝統があるので参加(実施者)の抵抗が少なく人員を募りやすいという優位性があるため当面はデファクトスタンダードとして君臨し続けるだろうとも思っている。
さらに id:kouas1100さんがやらない善よりやる偽善?おかしいでしょ! - 反社会的な中学生で述べられた。

僕は不登校やってるんだけど、クラスのお友達(笑)に、なんで来ないの?とか来いよ!とか言われたことがある。
それも偽善だよね。やる偽善だ。それに苦しめられた僕はやる偽善なんて賞賛できない。

これなんかも社会が押し付けた善行と無知と無理解が生んだ典型的な行為だ。「不登校児を学校に誘うのはいいことだ」という決め打ちをせずにid:kouas1100さんに対してより深く理解しようとしていれば他のアプローチもあっただろう。

このように善意や善行は社会によってハードコーディングされている。
そこから抜け出して各人が自らの目で培ったことを自らの手で行ってその結果としての善になるべきなんだよね。善ありきの行動じゃなく、行動ありきの善。
 それが実現しないなら人類は停滞し続け、社会のちょっとした舵取りミスが生んだ失敗のミルフィーユであっけなく滅びるだろう。

魂を鍛えるって

 「魂を鍛える」って意味わかんないよね。一応、僕の中での定義だと、知識は書物や映像で鍛えられるもの、思考は対話や何かを生み出すことで鍛えられるもの、魂は全ての事象の影響を受けるものって思っている。知識や思考より実践的身体的経験的要素が強いのが魂かな。例えば、田舎の田んぼ道を歩いてると不意に子供の頃に虫取り網を片手に全速力で駆け抜けていたときの情景が浮かんできて、その時の熱気とか汗の質感とか風を切るの気持ちよさがフラッシュバックして胸の辺りが変な浮遊観に包まれたあと無性に鼻の奥がむず痒くなる。そういうのを司ってるのが魂。感覚とか感性とかそういう感じの。(そうゴーストがささやくのよ)
 つまり魂を鍛えるってのは色んな経験をしろってことです。(おおざっぱ) 

マイノリティなコミュニティを延命させるには?

2013-11-14 - シロクマの屑籠

これを読んで思うことがあったので実体験を交えてツラツラと書いていこうと思う。

私はオタクではない*1が、ゲーム製作という(おそらく)少数の集団に属しているのでこの記事は他人事ではない。

ゆえにこの内容についての考察をここに記す。アニメイションや漫画といった所謂、オタク文化とゲーム製作では近しい分野とはいえ、処々に齟齬があるかとは思うがそこは寛仁大度をもって読んでいただけると幸いである。加えて弁明となるが、恐らく外野にとってはゲーム製作もオタク文化として捉えられているという点で、「同士」の発言と思ってもらえると嬉しい。

さて記事の内容は、オタク文化の享受が如何にして終焉するか、そして如何に延命していくかをコミュニティとの関係性を軸に説いたものである。

考察のはじめに元記事から派生した、
オタクのソロプレイを続けるためには、才能が要る - シロクマの屑籠
全面的に同意していることを伝えておく。
そのため内容の重複も見られると思うがご容赦いただきたい。
加えて、ゲームは誰かにプレイしてもらう、あるいは誰かとプレイして初めて完成するという性質を持っているので、それ自体がコミュニケーションを内包しており、そのためゲームの作り手は、「必ず誰かを想起せざるを得ず、決して孤高足りえない」という私の信念のもと、コミュニティと趣味(少なくともゲーム製作という趣味)の継続性は不可分であるとする。

まずは自分の環境について説明しておこう

現在私は東京にいるが、出身は地方中核都市である。アニメイトやヨドバシはあるがゲーマーズとらのあなはない。(特定されそうだな)
首都圏へのアクセスは不便ではないが身軽に行けるものではない。ブログで言及された典型的な中核都市のオタク事情であろう。私はいずれ地元に帰ることも意識の隅にあるので、それを踏まえて上で、地方中核都市のオタクコミュニティの延命について考えていこうと思う。

いや、その前に地方オタクコミュニティがなぜ排斥されるかについて考えてみるとする。

オタクコミュニティを殺すもの

端的に言えば、地方オタクのコミニティは、年を経るにつれゲゼルシャフトに殺される。なぜ経年が因子となって市場原理による淘汰が起こりうるのか。子供のときは親の庇護の元、比較的に経済から自由でいられる。ゆえに経済の担い手である大人たちからは理解しがたい独自のコミュニティも構築できる。市場原理に寄る淘汰が働き、ある程度の平均化画一化が図られている大人のコミュニティに比べると、子供のコミュニティは自由奔放である。例えば、牛乳瓶の蓋やセミの抜け殻といったものに価値を見出すといった具合にだ。そういった状況はオタク文化、ひいてはサブカルチャーとの親和性が高い。コミュニティの担い手が、未成年か、あるいは成人しても経済的に自由な立場で構成されているならば、市場的に不遇であってもそれに耐えうる弾性を持てる。しかし大人になるにつれて、養育や老後の備えなどで経済的自由が薄れていくと、市場影響力の少ないオタク的娯楽は他の娯楽に押されていく。異論はあるだろう。

確かにオタク業界の経済効果は決して少なくないが、それでも地方中小都市まで蹂躙しうる娯楽のメインストリーム「パチンコ」ほどではない。
例えば、
アニメ業界の市場規模は1兆3000億ぐらい*2
ゲーム業界が1兆2,334億円*3
それにたいして、パチンコ業界は18兆
衰退したとはいえこの規模の差がある。パチンコ屋のある街にオタショップがないことは多々あるが、その逆はほとんど無い。金を儲けようとしたらメイド喫茶よりパチンコ屋なのである。そういえば、私の故郷にもメイド喫茶ブームの際に雨後の竹の子のようにぽんぽんと開店していたが、大半が1~2年でつぶれていた。当時の私は高二病全盛期で「秋葉原にあるメイド喫茶以外はメイド喫茶に非ず」という痛い信念を持ってして地元のメイド喫茶を紛い物と断じ、一切のアプローチをしなかった。そのため実態がどうであったかは永遠の謎である。思えば惜しいことをした。首都圏文化がマスメディアの歪んだ主観を通して地方に伝播されるせいで、地方でその文化を再現した際に独特のスパイス*4が加わることがよくあるが、それを楽しめるチャンスを私は見す見す不意にした。当時の私は未熟だった。己を強固足らんがする為に粋に変に固執していた。無粋を楽しめてこその粋である、と当時の私に諭したい。

閑話休題

このように利益や機能を重視する環境の中において、オタク文化は淘汰される。大人になるにつれ市場経済という暴君の存在を甘受し、自身もそれに見合った消費スタイルに変容していくことになるのだ。
ここでid:p_shirokumaさんが提唱するのはゲイマンシャフト*5への回帰である。つまり、精神的結びつき*6によって自身のオタクとしての立脚点を確立させるのである。精神的結びつきは環境因子に抵抗する、と私は考える。本当は「凌駕する」と言いたいが、そこまで断言できるほどのプラクティスを私は持っていない。糊口に窮する状態でも、なお平然と弛み無い他者への愛を語る経験をしたならば言えるかもしれないが、幸か不幸かそういった経験はない。ゴンドアの歌ではないが、やはり人は地に根を下ろし、風と共に生きざるを得ないのだろう。純然たる思索の空のみで生きていくには、凡人には足りないものが多すぎる。エロスで腹は膨れないし、アガペーで病気は治らないのだ。

しかし、それでも他者の存在は社会的経済的肉体的不遇に対しての緩衝材として機能するし、また感情を増幅させたり、エフェクツユニットのように変質させたりすることが可能だ。例えば料理を美味たらしめているものはその料理の原材料の品質と加工技術の錬度だけではない。その認知プロセスを明確に示すことは出来ないが、「誰と食べたか」や「誰が作ったか」を美味の因子として看過していいものではないだろう。端的に言えば、幼馴染の美少女が作ったお弁当は美味しいということである。それがたとえ破壊的メシマズであってもそれはある意味で「おいしい」のだし。これになぞればオタク文化の美味しさもまた「誰か」の成分が濃ければ、それはいつまでも美味しいのだ。物事自身に実態はなく、その関係性によって存在が定義される、とするならば市場によって提供される関係性から脱却して、人対人に依拠した存在としてオタク文化を享受するならばその強度は生涯に取り組むものとして十分なものになるだろう。

id:p_shirokumaさんはその関係性を首都圏に求めることが鍵だと述べていた。それはアーリーアダプターであり続けるには重要なことだろう。しかし、最先端でないことを許容できるなら、首都圏へのつながりはそこまで重要ではない。オタクを社会からの疎外に対して、アヴァンギャルドな情報に傾倒することでアイデンティティを獲得するもの、と定義するのならば、最前線の情報を放棄することはオタクの概念と矛盾する。私はそんな矛盾を認めないストイックなオタク像を肯定、いや賞賛するが、しかし矛盾を抱えつつ自身に無理の無い形でオタクライフを送ることも同時に肯定したいと思う。
上京を一切せず、首都圏のイベントもあまり参加出来ない環境のオタクもいるだろうし、そういった環境で首都圏への縁を紡ぐのはやはり難しい。
それでもマイノリティな趣味を享受し続けたいという人々に対しても何かしらの受け皿があればいいと私は思う。
故にそれについて考えてみた。
ようやっと本編である。



はじめに断ったとおり、地方中核都市のマイノリティな趣味とそれを担うコミュニティを如何に存続させるかについて書いていく。

1.地域にコミットしていく

 まず手始めはここからだろう。
 地域のマイノリティな趣味をもつ同行者の集いなどを見つけて積極的に参加していく。首都圏のイベントに比べると数も少なく多様性もないが、その分密な人間関係を作るには向いている。というのも、イベント数が少ない分、顔ぶれも一緒で否応がなしに親密にならざるを得ない。後述する僕が参加していたアナログゲームの交遊会で出会った方が、通っている学校の講師だったという笑い話があるほど田舎のコミュニティは本当に狭い。
 僕はドイツゲーム(アナログゲーム)という趣味も持っているが、その性質上コミュニティの存在は不可欠であるのに愛好家が少ない、という不遇ぶりにある。私の地元などは、ボードゲームが売っている店はほとんどなく、もっぱらアマゾンで輸入しては暇そうな友人を捕まえて無理矢理付き合わせて楽しむしかなかった。かなりのフラストレーションがあったように思える。しかし、公共施設を借りて定期的に交遊会を開催する活動的なアナログゲーマーの方がいることを知り、そのコミュニティに便乗してずいぶんアナログゲームに対する欲求不満は解消され、また深い造詣も得ることが出来た。しかし、そういったコミュニティすらない、という人はいきなり2に行くしかない。
 ちなみに地方のそういったイベントを探す際は、Googleで「地域名 趣味名」で検索すると出てきやすい、あるいはATNDのようなイベント管理サイトで検索してみるのもいい、そして最も有用なのが公共のコミュニティ施設などに張られているイベント情報である。思いがけないコミュニティが見つかったりする。

2.コミットだけでなく発信していく

 先の交遊会を開いているアナログゲーマーのように、自身でコミュニティを作って世に問うていく。土壌が無くて独り相撲になる可能性もあるがそれでもやる価値があると私は思う。出来ればスタートダッシュは気心の知れた同士でやりたいがそれが無理な人もいるだろう。しかし、そんな境遇でもコミュニティを作りたいって気概があるような人なら難なくコミュニティを立ち上げてしまうようにも思える。
 さて、その過程である程度の寛容さを求められるかもしれない。「二次元美少女愛好会・但し金髪ビッチ系に限る」といった限定的な趣向が生息出来るほどの土壌は悲しいがあり得ない。これに耐えられない人はやはり首都圏との繋がりを重視するしか無い。
 私が参加していたアナログゲームコミュニティは年齢層も幅広く、遊ぶゲームもガチの戦略系から子供でも遊べるプリミティブなゲームまで多様にあったし、それを許容する雰囲気があった。唯一縛っていたのは、TCGぐらいである。*7
 またその発展系で地域の子供達を招待してゲーム大会を開いたりもした。
 こういった地域でも受け入れる形に希釈したマイノリティカルチャーの布教というのも必要だと思う。
 ただ小さい女の子にイロイロさせるのが好きなハードコアな業を背負った趣向の方には難しいかもしれない。(私にも少なからずそういった業があるのでこれはもう仲間を求めず孤独に墓まで持っていく所存だ。むしろこういうのは孤独だからこそ楽しい)

3.発信を経て一拠点として確立し、他の地域と関係していく。

 そのアナログゲームコミュニティの参加者は不思議なことに地元民だけではなかった。遠く首都圏や大都市圏からいらっしゃる方が結構居た。どう考えても東京のボードゲームイベントに参加した方がいいと思える人が常連だった。これは主催者の人柄が多分にあったと思う。主催者自体、他者のアナログゲームイベントに参加していて、そこで知り合った人が今度は主催者のイベントに赴くという形で他の地域との繋がりを作っていた。
 ここまで来るとコミュニティはかなり安定していて首都圏主体ではなく、地域同士の関係性によってコミュニティが回っていく形が出来る。
 その上で地域性を押し出して、付加価値を生むことが出来れば、トレンドの逆流現象も起きるだろう。そこまで行けば、コミュニティといてはまず安泰である。そうして新たなる聖地が生まれるのだ。

でもぶっちゃけると

多分これから先のオタクってそんな孤独にならないと思うんだよね。
少なくとも今思春期を全うしている世代はそうなると思う。オタクは既にコモディティ化が始まっていて、少なくとも今思春期の世代がアラフォーになるぐらいにはオタクの特別性は喪失するだろう。恐らくその時代にはその時代のメインストリームに反発するオタク的存在はいるだろうが、少なくとも現在オタクと言われてる趣味に関しては抵抗無く受け入れられる時代が来ているだろう。なにせジジババ世代がオタクの発起人世代なわけだし。なので今現在思春期真っ盛りで「俺オタクだわー」とか言ってる層は比較的楽観視しててもいいと思う。

よく考えると

とかまあ漫然と趣味とコミュニティについて書いてきたが、よく考えると私には趣味友がいなかった。(まあ友人とコミュニティはまた別だしね)おお、偉そうに書いていてこの体たらくである。うーむ、多分私の考える人との繋がりの定義のせいだろう。私は人間の繋がりとは、何か心が動かされる事象が発生した、その刹那においてのみ唯一確信出来るものだと思っていて、その瞬間に立ち会ったというのが重要なのであって、それを恒久的な関係として固定したいと思わない。そもそも人間自体が恒久的なものではないので、好ましい人物が居てもその好ましさはその瞬間に浮かび上がった像にすぎない。それより先に踏み込むことは、好ましくない側面まで踏み入ることであり、それを許容したいと思える相手は趣味とは別の次元で愛しているのだ。ゆえに趣味の合う友達という存在がいつまでも出来ないのだろう。悲しい人生だが仕方ない。

*1:*アニメ、漫画は気にいった作者のものしか見ないし、ゲームも仕事が絡まなければ好きなものしかやらない。オタクと呼ぶには些か鋭さが足りないだろう。

*2:関連商品販売込み

*3:コンシューマ限定・ハードウェア込み

*4:地域性、解釈によっては劣化とされる

*5:ただ地縁、血縁は念頭に置かないので本来の意味とは若干乖離する。

*6:情緒的な言い方で「縁」

*7:まあTCGはわざわざ交遊会を主催しなくても十分コミュニティがあるし