電脳トレモロ

君の囁きに合わせて、僕の電脳が震えた。

反撃してもしなくても平和にはならない。

id:fujiponさんの
16歳の女の子が語った「勉強することの意味」 - いつか電池がきれるまで

id:honeshabriさんの
【雑記】平和を望むならやり返せ - 本しゃぶり
を拝読させて頂いて思ったことを書いていきます。

均衡は平和を生まない

恐らく、id:honeshabriさんの言うことは均衡こそが平和を生むということなのでしょう。抵抗して力を見せることは確かに均衡をもたらすと思います。しかし、いちど力を見せてしまえばその力を維持する為に更なる投資が必要なります。そうして一度乗ったパワーゲームからは抜け出せなくなるのです。反撃をすれば相手はそれに適うだけの力を付けてまた殴り掛かってくるでしょう。途中で相手が折れればいいですが、そう上手くいく保証は有りません。またそれに一度反撃してしまえば、その切っ先の鋭さを正しく扱うのは非常に難しく、逆にこちらが相手を破滅させるような行為に至る可能性もあります。

耐えていればつぶれてしまう。

ではやられるがまま許せばいいのでしょうか。
それも違います。id:honeshabriさんがおっしゃるように無抵抗であれば相手は増長します。寛大な心で看過しても、相手は改心しません。エスカレートするのが目に見えています。
id:honeshabriさんがおっしゃるように、攻撃側がリスクなく自由に出来ると知ったらならば相手は思考を停止して好き放題するでしょう。その時点で一度立ち止まって「これはおかしい」と考え直せるだけの思考力があるような人間ははじめから虐げるようなことはしません。

因果の果てまで逃げよう

じゃあどうするか。僕は「逃げること」を提案します。
虐げられたら逃げましょう。どうしても我慢出来ない相手がいたらその場から逃げましょう。受け止めるのでもなく戦うのでもなく、逃げられる限り逃げる。これこそが平和をもたらすことだと僕は思っています。
虐めはされる側とする側が居なければ成立しません。される側が居なくなることこそ、する側を殺す行為なのです。
のらりくらりと攻撃をかわし続けてひょうひょうと生きていくのです。殴る側も殴られる側も苦しいのです。そのどちらでもない者だけが自由です。必死に逃げてそれでもどうしようもなくなったとき初めて「許す」か「殺す」かを選べばいいのです。
おそらくマララさんは逃げられない境遇に落ちいって出した答えが「相手を許す」だったのでしょう。そこまで追いつめられた人だけが答えを出せばいいのです。それ以外はどこまでも逃げたらいい。無駄に因果を背負う必要はない、と僕は思います。
最初から「許す」「許さない」なんて議論は要らないのです。
まずは逃げること、危機を回避すること。その過程で頼れるものはトコトン頼ること。司法も制度も資産も使えるだけ使うこと。
「許す」「許さない」の事態まで陥らせないことが大事なのです。
それでも被害を受けてどうしようもなくなったら、そこから先はどっちに転んでも結局は一緒で地獄しかありません。議論しても仕方がないのです。
「逃げられない」これこそが悲劇の元凶なのです。

逃げれるだけの力を付けよう

大戦中に能力のある科学者や技術者は比較的平穏な国に亡命しました。
そのように「いざという時に逃げられる力」を培っておくことこそが"個人の平和"にとっては必要なんだと思います。危機を察知して回避する力、被害を受けても最小限で留めて立て直す力、それでも駄目だったら心機一転全てをやり直せるだけの力、それらはおいそれと手に入れられるものでは有りませんが最も暴力を生まない力でしょう。
そして余裕があるならば「逃がす手伝い」をすることこそ個人が出来る僅かな平和への貢献だと思ってます。「相手を許しなさい」「なんで反撃しないんだ」という言葉より、そんな考えを必要としない場所へ連れて行ってあげることこそが虐げられた人にとって必要なことでしょう。僕はシンドラー杉原千畝氏こそ平和を体現した人物だと思っています。

世界平和とは別な話

ただこれは個人や極小さな集団の話であって民族や国家同士のような大きな闘争の解決は個人の思想や理念ではどうにもならないと思います。こればっかりは「他者を貶めなくても充足出来るリソースを平等に分け与えるという夢のような技術」が生まれない限り無理だと思います。
人の意思はそれほど脆弱です。
世界平和は議論するだけ無駄です。そんなことしてる暇があったら技術者になった方がいいです。