電脳トレモロ

君の囁きに合わせて、僕の電脳が震えた。

マイノリティなコミュニティを延命させるには?

2013-11-14 - シロクマの屑籠

これを読んで思うことがあったので実体験を交えてツラツラと書いていこうと思う。

私はオタクではない*1が、ゲーム製作という(おそらく)少数の集団に属しているのでこの記事は他人事ではない。

ゆえにこの内容についての考察をここに記す。アニメイションや漫画といった所謂、オタク文化とゲーム製作では近しい分野とはいえ、処々に齟齬があるかとは思うがそこは寛仁大度をもって読んでいただけると幸いである。加えて弁明となるが、恐らく外野にとってはゲーム製作もオタク文化として捉えられているという点で、「同士」の発言と思ってもらえると嬉しい。

さて記事の内容は、オタク文化の享受が如何にして終焉するか、そして如何に延命していくかをコミュニティとの関係性を軸に説いたものである。

考察のはじめに元記事から派生した、
オタクのソロプレイを続けるためには、才能が要る - シロクマの屑籠
全面的に同意していることを伝えておく。
そのため内容の重複も見られると思うがご容赦いただきたい。
加えて、ゲームは誰かにプレイしてもらう、あるいは誰かとプレイして初めて完成するという性質を持っているので、それ自体がコミュニケーションを内包しており、そのためゲームの作り手は、「必ず誰かを想起せざるを得ず、決して孤高足りえない」という私の信念のもと、コミュニティと趣味(少なくともゲーム製作という趣味)の継続性は不可分であるとする。

まずは自分の環境について説明しておこう

現在私は東京にいるが、出身は地方中核都市である。アニメイトやヨドバシはあるがゲーマーズとらのあなはない。(特定されそうだな)
首都圏へのアクセスは不便ではないが身軽に行けるものではない。ブログで言及された典型的な中核都市のオタク事情であろう。私はいずれ地元に帰ることも意識の隅にあるので、それを踏まえて上で、地方中核都市のオタクコミュニティの延命について考えていこうと思う。

いや、その前に地方オタクコミュニティがなぜ排斥されるかについて考えてみるとする。

オタクコミュニティを殺すもの

端的に言えば、地方オタクのコミニティは、年を経るにつれゲゼルシャフトに殺される。なぜ経年が因子となって市場原理による淘汰が起こりうるのか。子供のときは親の庇護の元、比較的に経済から自由でいられる。ゆえに経済の担い手である大人たちからは理解しがたい独自のコミュニティも構築できる。市場原理に寄る淘汰が働き、ある程度の平均化画一化が図られている大人のコミュニティに比べると、子供のコミュニティは自由奔放である。例えば、牛乳瓶の蓋やセミの抜け殻といったものに価値を見出すといった具合にだ。そういった状況はオタク文化、ひいてはサブカルチャーとの親和性が高い。コミュニティの担い手が、未成年か、あるいは成人しても経済的に自由な立場で構成されているならば、市場的に不遇であってもそれに耐えうる弾性を持てる。しかし大人になるにつれて、養育や老後の備えなどで経済的自由が薄れていくと、市場影響力の少ないオタク的娯楽は他の娯楽に押されていく。異論はあるだろう。

確かにオタク業界の経済効果は決して少なくないが、それでも地方中小都市まで蹂躙しうる娯楽のメインストリーム「パチンコ」ほどではない。
例えば、
アニメ業界の市場規模は1兆3000億ぐらい*2
ゲーム業界が1兆2,334億円*3
それにたいして、パチンコ業界は18兆
衰退したとはいえこの規模の差がある。パチンコ屋のある街にオタショップがないことは多々あるが、その逆はほとんど無い。金を儲けようとしたらメイド喫茶よりパチンコ屋なのである。そういえば、私の故郷にもメイド喫茶ブームの際に雨後の竹の子のようにぽんぽんと開店していたが、大半が1~2年でつぶれていた。当時の私は高二病全盛期で「秋葉原にあるメイド喫茶以外はメイド喫茶に非ず」という痛い信念を持ってして地元のメイド喫茶を紛い物と断じ、一切のアプローチをしなかった。そのため実態がどうであったかは永遠の謎である。思えば惜しいことをした。首都圏文化がマスメディアの歪んだ主観を通して地方に伝播されるせいで、地方でその文化を再現した際に独特のスパイス*4が加わることがよくあるが、それを楽しめるチャンスを私は見す見す不意にした。当時の私は未熟だった。己を強固足らんがする為に粋に変に固執していた。無粋を楽しめてこその粋である、と当時の私に諭したい。

閑話休題

このように利益や機能を重視する環境の中において、オタク文化は淘汰される。大人になるにつれ市場経済という暴君の存在を甘受し、自身もそれに見合った消費スタイルに変容していくことになるのだ。
ここでid:p_shirokumaさんが提唱するのはゲイマンシャフト*5への回帰である。つまり、精神的結びつき*6によって自身のオタクとしての立脚点を確立させるのである。精神的結びつきは環境因子に抵抗する、と私は考える。本当は「凌駕する」と言いたいが、そこまで断言できるほどのプラクティスを私は持っていない。糊口に窮する状態でも、なお平然と弛み無い他者への愛を語る経験をしたならば言えるかもしれないが、幸か不幸かそういった経験はない。ゴンドアの歌ではないが、やはり人は地に根を下ろし、風と共に生きざるを得ないのだろう。純然たる思索の空のみで生きていくには、凡人には足りないものが多すぎる。エロスで腹は膨れないし、アガペーで病気は治らないのだ。

しかし、それでも他者の存在は社会的経済的肉体的不遇に対しての緩衝材として機能するし、また感情を増幅させたり、エフェクツユニットのように変質させたりすることが可能だ。例えば料理を美味たらしめているものはその料理の原材料の品質と加工技術の錬度だけではない。その認知プロセスを明確に示すことは出来ないが、「誰と食べたか」や「誰が作ったか」を美味の因子として看過していいものではないだろう。端的に言えば、幼馴染の美少女が作ったお弁当は美味しいということである。それがたとえ破壊的メシマズであってもそれはある意味で「おいしい」のだし。これになぞればオタク文化の美味しさもまた「誰か」の成分が濃ければ、それはいつまでも美味しいのだ。物事自身に実態はなく、その関係性によって存在が定義される、とするならば市場によって提供される関係性から脱却して、人対人に依拠した存在としてオタク文化を享受するならばその強度は生涯に取り組むものとして十分なものになるだろう。

id:p_shirokumaさんはその関係性を首都圏に求めることが鍵だと述べていた。それはアーリーアダプターであり続けるには重要なことだろう。しかし、最先端でないことを許容できるなら、首都圏へのつながりはそこまで重要ではない。オタクを社会からの疎外に対して、アヴァンギャルドな情報に傾倒することでアイデンティティを獲得するもの、と定義するのならば、最前線の情報を放棄することはオタクの概念と矛盾する。私はそんな矛盾を認めないストイックなオタク像を肯定、いや賞賛するが、しかし矛盾を抱えつつ自身に無理の無い形でオタクライフを送ることも同時に肯定したいと思う。
上京を一切せず、首都圏のイベントもあまり参加出来ない環境のオタクもいるだろうし、そういった環境で首都圏への縁を紡ぐのはやはり難しい。
それでもマイノリティな趣味を享受し続けたいという人々に対しても何かしらの受け皿があればいいと私は思う。
故にそれについて考えてみた。
ようやっと本編である。



はじめに断ったとおり、地方中核都市のマイノリティな趣味とそれを担うコミュニティを如何に存続させるかについて書いていく。

1.地域にコミットしていく

 まず手始めはここからだろう。
 地域のマイノリティな趣味をもつ同行者の集いなどを見つけて積極的に参加していく。首都圏のイベントに比べると数も少なく多様性もないが、その分密な人間関係を作るには向いている。というのも、イベント数が少ない分、顔ぶれも一緒で否応がなしに親密にならざるを得ない。後述する僕が参加していたアナログゲームの交遊会で出会った方が、通っている学校の講師だったという笑い話があるほど田舎のコミュニティは本当に狭い。
 僕はドイツゲーム(アナログゲーム)という趣味も持っているが、その性質上コミュニティの存在は不可欠であるのに愛好家が少ない、という不遇ぶりにある。私の地元などは、ボードゲームが売っている店はほとんどなく、もっぱらアマゾンで輸入しては暇そうな友人を捕まえて無理矢理付き合わせて楽しむしかなかった。かなりのフラストレーションがあったように思える。しかし、公共施設を借りて定期的に交遊会を開催する活動的なアナログゲーマーの方がいることを知り、そのコミュニティに便乗してずいぶんアナログゲームに対する欲求不満は解消され、また深い造詣も得ることが出来た。しかし、そういったコミュニティすらない、という人はいきなり2に行くしかない。
 ちなみに地方のそういったイベントを探す際は、Googleで「地域名 趣味名」で検索すると出てきやすい、あるいはATNDのようなイベント管理サイトで検索してみるのもいい、そして最も有用なのが公共のコミュニティ施設などに張られているイベント情報である。思いがけないコミュニティが見つかったりする。

2.コミットだけでなく発信していく

 先の交遊会を開いているアナログゲーマーのように、自身でコミュニティを作って世に問うていく。土壌が無くて独り相撲になる可能性もあるがそれでもやる価値があると私は思う。出来ればスタートダッシュは気心の知れた同士でやりたいがそれが無理な人もいるだろう。しかし、そんな境遇でもコミュニティを作りたいって気概があるような人なら難なくコミュニティを立ち上げてしまうようにも思える。
 さて、その過程である程度の寛容さを求められるかもしれない。「二次元美少女愛好会・但し金髪ビッチ系に限る」といった限定的な趣向が生息出来るほどの土壌は悲しいがあり得ない。これに耐えられない人はやはり首都圏との繋がりを重視するしか無い。
 私が参加していたアナログゲームコミュニティは年齢層も幅広く、遊ぶゲームもガチの戦略系から子供でも遊べるプリミティブなゲームまで多様にあったし、それを許容する雰囲気があった。唯一縛っていたのは、TCGぐらいである。*7
 またその発展系で地域の子供達を招待してゲーム大会を開いたりもした。
 こういった地域でも受け入れる形に希釈したマイノリティカルチャーの布教というのも必要だと思う。
 ただ小さい女の子にイロイロさせるのが好きなハードコアな業を背負った趣向の方には難しいかもしれない。(私にも少なからずそういった業があるのでこれはもう仲間を求めず孤独に墓まで持っていく所存だ。むしろこういうのは孤独だからこそ楽しい)

3.発信を経て一拠点として確立し、他の地域と関係していく。

 そのアナログゲームコミュニティの参加者は不思議なことに地元民だけではなかった。遠く首都圏や大都市圏からいらっしゃる方が結構居た。どう考えても東京のボードゲームイベントに参加した方がいいと思える人が常連だった。これは主催者の人柄が多分にあったと思う。主催者自体、他者のアナログゲームイベントに参加していて、そこで知り合った人が今度は主催者のイベントに赴くという形で他の地域との繋がりを作っていた。
 ここまで来るとコミュニティはかなり安定していて首都圏主体ではなく、地域同士の関係性によってコミュニティが回っていく形が出来る。
 その上で地域性を押し出して、付加価値を生むことが出来れば、トレンドの逆流現象も起きるだろう。そこまで行けば、コミュニティといてはまず安泰である。そうして新たなる聖地が生まれるのだ。

でもぶっちゃけると

多分これから先のオタクってそんな孤独にならないと思うんだよね。
少なくとも今思春期を全うしている世代はそうなると思う。オタクは既にコモディティ化が始まっていて、少なくとも今思春期の世代がアラフォーになるぐらいにはオタクの特別性は喪失するだろう。恐らくその時代にはその時代のメインストリームに反発するオタク的存在はいるだろうが、少なくとも現在オタクと言われてる趣味に関しては抵抗無く受け入れられる時代が来ているだろう。なにせジジババ世代がオタクの発起人世代なわけだし。なので今現在思春期真っ盛りで「俺オタクだわー」とか言ってる層は比較的楽観視しててもいいと思う。

よく考えると

とかまあ漫然と趣味とコミュニティについて書いてきたが、よく考えると私には趣味友がいなかった。(まあ友人とコミュニティはまた別だしね)おお、偉そうに書いていてこの体たらくである。うーむ、多分私の考える人との繋がりの定義のせいだろう。私は人間の繋がりとは、何か心が動かされる事象が発生した、その刹那においてのみ唯一確信出来るものだと思っていて、その瞬間に立ち会ったというのが重要なのであって、それを恒久的な関係として固定したいと思わない。そもそも人間自体が恒久的なものではないので、好ましい人物が居てもその好ましさはその瞬間に浮かび上がった像にすぎない。それより先に踏み込むことは、好ましくない側面まで踏み入ることであり、それを許容したいと思える相手は趣味とは別の次元で愛しているのだ。ゆえに趣味の合う友達という存在がいつまでも出来ないのだろう。悲しい人生だが仕方ない。

*1:*アニメ、漫画は気にいった作者のものしか見ないし、ゲームも仕事が絡まなければ好きなものしかやらない。オタクと呼ぶには些か鋭さが足りないだろう。

*2:関連商品販売込み

*3:コンシューマ限定・ハードウェア込み

*4:地域性、解釈によっては劣化とされる

*5:ただ地縁、血縁は念頭に置かないので本来の意味とは若干乖離する。

*6:情緒的な言い方で「縁」

*7:まあTCGはわざわざ交遊会を主催しなくても十分コミュニティがあるし