電脳トレモロ

君の囁きに合わせて、僕の電脳が震えた。

「亜空間相撲レスラー」という恐るべき者達

id:luvlifeさんの

ハテナの毎日

  

を拝読させて頂いたとき、僕の中であるカテゴリーに属している人々のことを思い出しました。それが「亜空間相撲レスラー」とカテゴライズしている方々です。

 

僕は元来、「人には類型はあっても定型はない、定型で人を判断するのは相手に対して失礼だ」と考えているので、カテゴリー分けってそんなに好きじゃないんですけれど、でもしておかないと円滑に磨いた人生の輪郭がデッコボコになるのでやむを得ずしていたりします。いや、考えてみると好きじゃないとか言いつつ結構していますね。ううむ、反省すべきかな。でも、類型を纏めてカテゴリーを作ることはあっても、それで人の全てを評価したりはしないように気を付けているので大丈夫、ということにしておきましょう。あ、そうか分かりました。多分、サンプル集めてそこからパターンを解析して類型を見出し、それを元に抽象化された概念、つまりカテゴリーを生み出すっていう一連の流れが好きなんです。これは現実世界をプログラミングに落とし込む作業と一緒です。ただ、その逆は嫌いです。ジャンルから作品を判断する、とか。

 

閑話休題

 

さて、このタイプを僕は「亜空間相撲レスラー」と呼んでます。

(ん、なんか似たような話最近書いた気がするな。文系説教ジジイのときだ)

知識ファシストという存在

 

亜空間相撲レスラーはとにかく負けることが嫌いです。どんな状況でも相手を打ち負かすことしか考えていません。彼らは全盛期のナポレオンをも顔負けの常勝を望んでいて、故に負けそうな土俵では相撲を取らないのです。そういう土俵で相撲を取ることになったときは、全く別の土俵を亜空間から召喚してそこで相撲を取ろうとします。なんともはた迷惑な四次元ポケットを持った存在、それが亜空間相撲レスラーなのです。

 

分かりやすい例を挙げますと、あるとき僕はまだ未熟だけど未来を感じさせる技術について話す機会がありました。

その時に聞いていた相手が、「それでその技術は儲かるの?」と言い出したので「儲かるわけがないです。これはそういう段階にないです」と答えると、そこからは延々とコスト意識の重要性をはじめとした経営観についての話をされることになりました。確かに経営観は大事ですが、その時はそういった場ではありませんでした。また、この技術は経営とは別の位相において素晴らしいものなのに、それを経営的に不出来だからとして貶されたことに、僕は名状しがたい不快感に苛まれました。これが亜空間相撲レスラーです。

コミュニケーションは即ち戦いである、という原理主義を掲げているのか知りませんが、とにかくこの手合いはコミュニケーションをする際になんとか相手を組み敷こうとしてきます。

 これがもう、ほんっっっとうにめんどくさいのです。その面倒さは、容器から零れて飛び散った爪楊枝を元の通り奇麗に並べる行為を遥かに凌駕します。

 

id:luvlifeさんの日記に出てきた客の男性も、客と店員という土俵をどこまでも持ち運んでそれを笠に着て相手を威圧していました。これも典型的な亜空間相撲レスラーですね。

そもそも客と店員は、サービスとその対価という関係性である以上、どこまでも対等であるべきです。サービスが対価と正当に相殺されてこその近代経済です。それを壊すのは封建時代に戻ることに他なりません。僕らは封建時代を乗り越えた先人の意思を継ぐ為にも、経済によって与えられたものはそれに見合った形でしか捉えてはいけないのです。ただ現状は対価と見返りのバランスが悪いってことが結構ありまして、その場合は不如意なーと思いつつ、後ろめたかったり憤ったりしています。例えばコンビニの業務はその対価に対してサービスが過剰だと僕は思っていますので、コンビニ店員には割と恐縮してしまいます。そうするとなんとも具合が悪いので、せめてもの労いとして会計の度に「お願いします」と「ありがとうございます」は必ず言うようにしてたりします。(まあ別にコンビニだけじゃないのですが)そうすると、たまにぎょっとする店員がいて面白いです。逆にちょっとお高い店(といってもたかが知れてますが)に行った時は、コート取りにくるまで入り口から動きませんし、椅子を引くまで座りません、汚したり落としたりしても基本的には(盛大にグラスをひっくり返すとかしなければ)自分では対処しないようにしています。なぜならそこが対価に見合ったサービスを提供する場所だからです。むしろ勝手にやってしまうことのほうが相手の力量や信頼を否定していることになり礼を失すると僕は思っています。

 

閑話休題

 

つまり客と店員という社会的には逆いにくい関係性をプライヴェートまで平気で持ち込むのが亜空間相撲レスラーなんですね。あ、今どこでも人間関係ぇーって大山のぶ代氏の声が頭に響きました。

また一緒にいた男性も下卑た台詞を平然と吐く人物に面を食らい、自身の尊厳が損なわれたような思いになって、その諸元をid:luvlifeさんに求めてその腹いせで辛辣に当たったように思えますね。(当事者じゃないのにこういうこと言ったら駄目だね)こういった不条理な状況に陥った時に身近にいる優位に立てる人物に対して、攻撃性を顕著に表すのも亜空間相撲レスラーの特徴です。ストレスの原因を内在に求めて自己解決する、という経験に乏しいのかもしれません。あと、セックスという一般的には、男性優位とされる行為に持ち込もうとした点がなんかテンプレ臭くて、ちょっと文学的だなと思いました。

 

でもセックスって情念的には女性優位ですよね。男のセックスは内罰的、内向的、閉鎖的、自己完結的だけど、女性はその真逆です。外部から受け入れるってのは他者の存在をより高次から肯定出来ないと行えなえませんから。ゆえに女性に加虐心を燃やす男性は、どこまで自分が許される存在であるかをパートナーを利用して計ろうとするわけです。まあ子供なんでしょう。だだを捏ねてる子供と一緒。結局、男は情念においては女性に勝てないと思います。

ただ情念ではそうですけど、セックスの人間的本質は対等だろう、と僕は思ってます。割と本気でこっちの流れに進んでほしいんですが、何故か世の人々はセックスに不平等を持たせてそれを有り難がってるのです。そもそも女性・男性という対立構造は、その構造が自明であれば本来、その構造を改めて定義する必要はないはずなんです。自明は自明として、そのまま扱えばいい。原始的な生物なんかはそれを地でいってて、性別はなく個々の振る舞いとして繁殖しています。女性も男性もただ多様化の果てに獲得した繁殖手段の一様式として捉えてたらここまで話はこじれなかったでしょう。そうだったのなら、ただセックスして終わりで男女という役割分担の"定義"もいらなかったのです。拗れだしたのはセックスに繁殖以上の価値を見出そうとしたからです。その過程で、セックスに置ける男女の役割や立ち位置が徐々に定義されていったのでしょう。これ自体は実に人間らしい部分なのですが、それに生物的な構造が癒着して、いつまでもそれが剥がれずに爛れちゃってるのが現状なんですね。僕が思うに、ここまでどうしようもなく"繁殖"を弄んで冒涜したんですから、開き直って皿まで喰えよって話なんですよ。つまり、繁殖手段からの脱却した人間のセックスにいつまでも繁殖手段的な要素を残すな、繁殖を残す為に男女に役割を与えるな、ってことです。セックスは、個々が個々の関係性の上で、それぞれの振る舞いを追求していった結果、それらが重なりあって結んだ像ってのが理想なんです。その理想の場所から展望すれば、LGBTは特異なモノではなくなります。全てのセックスは平等に特別な行為としてそこに在ります。

 

閑話休題

 

まあこんな感じでひじょーにめんどくさい亜空間相撲レスラーさんなのですが、その対処法はあるのでしょうか。

 

はい、一応、あります。一応ですが。

 

それは、

 

 

おだてればいいのです。それで終わりです。

相手は気分を良くして笑顔でバイバイしてくれます。負けるが勝ちと言いますが、論旨をずらしてくるような相手に対してはそれを指摘するよりも、そのまま受け入れて適当に言葉尻を拾ってあとは褒めていればいいのです。

しかし、その煽ててる時間が本当に不毛で、まるで中二病罹患者が昼休み直前のもっとも気だるい授業中に窓の外を見ながら「こんなことやっても社会に出ても何の役にも立たないのによ」と心の中で悪態をつく瞬間に匹敵するほどの不毛さです。あと下手に煽てるとなつかれることもあります。そして、ちょっとでも蔑ろにするととたんに攻撃的になって困るのです。お前はときメモの爆弾か、と。

 

結局、そういう相手とはなるべくエンカウントしないようにするしかありませんね。

ああ、世は無情なりや。ただ花を美しいと告げることすら石が飛んでくる。

しかし、そういった人間もまた人間の多様性に貢献している貴重な仲間なので否定も出来ないのですよ。というか、ある部分ではとても愛していたりするです。嫌いじゃない、嫌えるほど人間は面白くないし面白いのです。うーむ、難しい。

 

 

あーあ、しっかしバシルーラ覚えたい。(中二病

 

全く閑話休題。 

はてなブログ徘徊してたら、皆様、結構ちゃんとしたhtml書いてらしてて驚きました。私のあまりに汚いブログが申し訳なく、とりあえず<a>タグを付けさせて頂いたのですが、そこですでにかったるくなってしまいましたので結局こんな見づらい感じでございます。

Iambic 9 Poetry

はぁい、迷える子羊のみなさんこにゃにゃちわー。

スウィング・ハート・ジャンヌの火炙りラジオ、第345回でーす。

といういつも通りのゆるーい口上から始まった火炙りラジオでございます。

最近、寒くなってきたので盛りそばからかけそばに変えて、でも塩分が気になるので汁半分でお願いします、とかめんどくさい注文をしているジャンヌです。みなさんは寒い日の食事ってどうしてますか、お聞かせください。

 

それではさっそく恒例の「可及的速やかな命題」コーナーにいきたいと思います。

ラジオネーム「ベンジャーマン好きな奴とはいまいち仲良くなれない」さんからの問いです。

 

「昨今の極度に開かれたIT環境によって得た情報量の過多で、自身の価値観が細分化、多様化されすぎて立脚点を見出せないのですがどうすればいいですか」

 

とのことです。

ああー、これ私も分かりますよー。

ちょっと興味のあるジャンルをググってみたら、そのジャンルに対して深い造詣を持った人のWEBページが出てきたりして感心していたら、また別の機会でそのwebページに対する反論を見つけちゃった、とかそういうときですね。

端的に表すとZ時代のヤムチャになった気分と言うか、とにかくこいつら高次過ぎて何を言い合ってるのかわからないぜ、って瞬間に立ち会った時ですね。

あるいは自分が思いついたアイディアがもうやられているかどうか不安になって検索したらとっくに実現されてて、しかもそれがもう既に使えないと判断されてた時とかですよね。

そんなときに自身を実存を正しく認識してどこに足を置けるかってことですか。

これって凄く難しいことでもあるんですけど、逆にシンプルなことでもあるんですよ。

どうするかって、そりゃもうシンプルですよ。

今すぐ、このラジオを聞いているPCの電源ケーブルを適当な高さを持った突起物に引っ掛けて輪っかにして首をくくって全体重を掛ければいいのです。

そうすればとりあえず、実存を希求するシステムは消失するのですから。

え、それって自殺じゃないかって。

確かに自殺ともいいますが、ある側面では救済ともいいます。

これが救済として認められないのは、単に金持ちが困るからです。

金持ちには自身の立脚点に安易な解決を見る者や、立脚点に対していつまでもウジウジと悩んで翻弄される者を食い物にして経済的恩恵を受けている者が少なからずいますので。

そんな構造から抜け出したかったら、バイバイ現世でございます。

バイバイ現世が「悪」とされるのは、皆が皆そうしたら搾取される層がいなくなって金持ちが困るからってことです。

ですので、もうどうしようもなくなったら死にましょう。別にそれはそんなに悪いことじゃないですよ。

まあ私は死にたくないので、当分頑張りますけれど。

死にたくないって、馬鹿っぽいですけどちゃんとした立脚点だと私は思ってますので。

 

「ベンジャーマン好きな奴とはいまいち仲良くなれない」さん、解答になっておりましたでしょうか。

それではリクエストです。

Squarepusherで、

 

Iambic 9 Poetry

 

http://www.youtube.com/watch?v=7d5f69QoBnw

 

忌むべき○○が。

A地区には忌むべき存在がいた。

その存在を便宜上、アクマと呼ぶことを許してほしい。

その界隈では土着的な呼び名があったが、この呼び名は聞き取ることが難しく、ここに書き記すことが出来なかった為だ。

そのアクマは地区の外れの森に済んでいた。

森は鬱蒼と茂った針葉樹によって始終、暗澹としていた。

そんな森でアクマは日に三回、地区の住民に襲撃を受けていた。

農具を武器に変えた住民が大挙してアクマの地に出向き、アクマの四肢を直視しがたいほどに粉砕した。

けれどアクマは不死身であった。

きっかり一時間後には、また元の姿を復元していた。

その超自然的な力は、さらに人間を恐怖へと駆り立てた。

その悲痛な連鎖がアクマへの熾烈な虐殺へと至った。

しかし、アクマは決して反撃することはなかった。

アクマは知っていたのだ。

自分を虐げる人々が如何に未熟な存在であるかを。

アクマはその深い慈愛を持って住民を受け入れた。

 

 

 

 

しかし、現象はどこまでも残酷であった。

この世に永遠は無かった。

そう、アクマは死んでしまった。

砂漠の砂粒を一つ一つ運ぶような年月を経て、不死身は死んだ。

アクマを失った住民は、住民の中からアクマを見出すことにした。

そうして、住民同士の殺し合いが始まった。

それからはあっという間だった。

アクマがいた時から比べれば実に一寸と呼べる時間で住民は滅びた。

そうしてA地区は消えた。

 

これを読んでいる住民がいたら、もう一度考え直してほしい。

忌むべき存在が本当に根絶されるべきかを。

私は、

(ここで文章は掠れて読めなくなっている。以後のページも損失しているようだ)

知識ファシストという存在

文系説教ジジイ

 

という言葉を知りました。

こういう言葉を思いつく発想力って面白いですね。

草食系男子とか、インターネットカラオケマンとか。

平易な言葉の組み合わせで、「斬新だけどすんなり意味が飲み込める言葉」を作り出すのってウィットが必要ですよね。

見た瞬間にもう既に、早口で知識を捲し立てたあと一呼吸置いて満足そうにこちらを一瞥して息を漏らし、こちらがそれに対してあからさまな敬意をしめさないと見るや否や「お前は何も分かってない」と頭ごなしに批判を始める、寄れたスーツを着た禿頭でテカった顔をした小太りの男性が目に浮かびました。あとその男性は居酒屋にいてビールのジョッキを片手にしきりに刺身のツマを捏ねくり回してました。

いやあ、そこまで一瞬で浮かばせる言葉はなかなか思いつかない。

僕なんかが、草食系男子に改めて名付けるなら「界面活性男」、

インターネットカラオケマンは「超時空ドサ回り」になっちゃいますね。

全然、ピンとこない。

一応、弁明させて頂きますと、界面活性男はバブル時代と逆の価値観を持ってるっぽいというところから。

バブルに反する→アンチバブル(理科の実験)→その材料の界面活性剤って発想です。

超時空ドサ回りはネットで時空を超えてドサ回りしてるから。

うーん、いまいちですね。

さて、文系説教ジジイなんだけど、確かにこういうタイプはいますね。

多分、モノを知っている自分が偉いとでも思っているんでしょう。

偉いのはそのモノを当人に教えた人やテキストや画像、映像であって、当人は別段偉くも無いわけです。

そもそも物知りは偉い、という間違った認識がまかり通っていることがおかしいです。

(おかしくて上唇の裏に口内炎出来そう)

尊敬は人と人の関係によって構築していくものであって、ただ「知識が豊富」というだけでは成立しません。

なのに、まるで知識を暴力のように振るって人から尊敬を得ようとするんですね。

僕はこういうやつを知識ファシストって呼んでます。

 

知識ファシストってのはまず第一に狭量なあるいは酷いものだと単一な分野の知識を持つことが正義だと思っています。

例えば、文学や経済や音楽やマスメディアやら、まあ何でもいいのですけど、とにかく偏った世界にばかり傾倒して、それを知らないものは自分のヒエラルキー以下である。ゆえに知らないやつは自分に従え。

といった論調を平気で展開します。

こういう奴には「無知の知」って言葉を耳が爛れるまで聞いて欲しいです。

貴方の知らない世界は沢山あるし、その世界は貴方が信望している世界と同等の深淵を湛えています。自分の好きな物が優位であるなんてまったく井の中の蛙です。

それに知識ってのは人を見下す手段に使うものじゃない、そんな下賎なものじゃない、と僕は思います。

 

これは教育というか社会が良くないのかもしれませんね。

社会は情報→経済→権威→尊敬を安易に一本にまとめて語るから、情報を持っていることが即ち尊敬を得られることだと勘違いしてしまうんです。

尊敬ってのはそんなストレートなハイウェイじゃない。

マスメディア批判は脊髄反射的であまりしたくないですが、情報からストレートに尊敬を生むようなメカニズムを作ったのはやはりマスメディアでしょう。

また、封建制度へのカウンターっていう流れもあると思います。

出自次第で尊敬を得られるというのも馬鹿馬鹿しい話ではありますが、

情報を持ってればそれだけで尊厳が付随するって言うのも全くもって馬鹿馬鹿しいです。

それに封建時代に権威を持っていた出自にはそれなりの哲学(武士道や騎士道)があって彼らの中にも、それに習って気高く生きようとした人達がいたことに疑いはありません。

またそれに抗って平等を訴えた人もいます。

結局は、個人の話なのです。尊厳というものは。安易な条件を達成すれば担保されうるものではない。

しかし、それをきちんと教えるような教育に現代はなっていません。

物知りは偉い、学歴を持った人は偉い、なんて教えが当たり前になされている。

まあ現代の市場原理に照らし合わせると経済力が尊さに結びつくのも致し方ないのかもしれませんね。情報がお金を生むのは間違いありませんから、そのお金を持っている人が尊いという思考停止から脱却出来ない限り、情報が尊さの証明であるなんてバカらしい考えは消えないかもしれませんね。

だって井戸端会議をしている妙齢の御婦人ですら、自分のもつ情報をひけらかすわけですから。

(まあご婦人方の会話は一切の経済的価値を生まないと言う点ではある意味素晴らしいと思います)

 

結局、知識や学歴を持つこと自体が尊いんじゃなくて、それで他者に何を為したかが尊敬を生む、という当たり前のことをちゃんと教えてくれる人に出会えるかどうかなのだと思います。

そういう人に出会えなかった、あるいは出会っても気付けなかった人は、社会という蒙昧な不文律に呑まれて知識をひけらかしてしまうのでしょう。

 

加えてですが、知識でご飯食べてる人がその知識を求めている相手に対して偉そうにしているのをみるとやはり違和感を得ます。

知識ある人がその知識でご飯食べれてるのは、知識がなくてそれを必要とする人がいるからであって、いわば表裏一体の関係にあるのです。(脱構築論っぽいですね)

知らない人がいるから自分が糊口を凌げるのであって、その存在を蔑むっていう感覚はいまいち分かりません。

需要のある知識を持つ、という希少性は経済的恩恵でもってして相殺されるべきであって人間の尊厳とはなんら関係が無いのです。

なにより代替がある存在だから蔑ろにしていい、という考え自体が根本的に間違っています。

有機体論的な話になりますが、社会は個々の役割を全うした結果の総体としてあるのであって、ある特定の位相が他の位相をコントロールしているわけではないのです。

その点に置いて、代替出来る存在もまた貴重な人間社会の一員だとすべきなのです。

結局、個人というものに極端に固執せざるを得ない、という呪いから脱却出来ない人が知識をもってして人を蔑むのだと思います。

その呪いから脱却出来るか否かは権威や学歴や経済では計れません。

ただ当人の眼によってのみ見定めることが出来るのです。

 

僕がそういう「知識で人を蔑む行為」を極端に嫌うのは、知識の気高さを冒涜しているからに他なりません。

唐突ですが、僕はプログラマです。

プログラマの中には僕では到底足下にも及ばない知識や技術を持った方が沢山います。

でもその知識を惜しげもなく嫌みもなく、ストンと伝えてくれる人がいます。

それは彼らが知識を使って人を屈服させたいと望むより、その知識を他者に伝えて自分の携わっている分野がより発展することを望んでいるからです。

まあそういう方の中には、夢中になって話しすぎてドン引きされてしまう人もいるのですが。

僕自身もそういう傾向があるので気を付けています。でも僕はそういう人が嫌いじゃないのです。こういう人がこじれた捉え方をされると知識をひけらかしてると思われますが、知識をひけらかしてる人間と純粋にその知識を愛していて伝えたいと思っている人間は明確に区別されます。

もちろん、そういった方にも生活はありますから対価を要求することもありますし、またあまりにも安易に情報を貰おうとする、ただ寄りかかっているような相手に対しては辛辣に当たります。しかし、自立して真剣に学ぼうとしている相手を蔑むことはありません。

僕は少なからずそういった世界で生きていますので、知識を武器として貶めるような扱いをすることが赦せないのだと思います。

 

そういう安易に知識を貶める輩は上唇の裏に口内炎が出来ればいいと思います。

 

以降、 閑話休題

いやーそれにしても、文系説教親父って結構前のネットスラングだったんですね。

ネットスラングにもすっかり疎くなっていまいました。

もう2chやブログやSNSの徘徊をずっとしてなかったので。

 

luvlifeさんのブログ

http://theinterviews.jp/luvlife 

を拝読させて頂かなかったら知りませんでしたね。(ブログというかインタビュワーズか)

直接知ったのは、okutavianusさんの日記で

http://okutavianus.hatenablog.com/entry/2013/11/02/111031

がはてなトップに出てからですね。

これ多分、ちょっと前にluvlifeさんの萩尾望都のレビュー読ませて頂いた時につけたブックマークから解析されてトップに来たんだと思います。はてなのエンジニアはそういう風に組んでるのか、面白いなーって思いました。

僕なら多分やらないですね。ブックマーク自体をリンクさせるのはなんか違うなーって思うので。

ブックマークは個人の軌跡であって他人とリンクさせたくないって思ってしまいます。

でも、大多数のユーザーからするとそれが面白いし驚きがあるんでしょうね。自分の趣味とあったブログが上がってるっていう驚き。そういう思考(僕はむしろ自分の趣味と合わないブログを見たいと思ってしまうので)が出来ないから駄目エンジニアなのかも。

 

やーいやーい、ダメジニアー。お前の設計クソセッケー。

 

ぐぬぬ。

 

さて、最近はこのようにはてなトップを見たり、放置したたtwitterを復活させたりしてますが、流動的な知識も適度に入れると新鮮な気分になっていいですね。

 

やっぱり商業ラインに乗った書物、映画、漫画、アニメイション、ゲームばっかり触れてると安定しますけど、時折ふっと呆然としてしまいますね。

これは「生」なのか、とか考えたりしちゃいます。もっと生っぽいのが欲しくなります。奇麗に見繕ってない、市場原理で加工されてない生っぽい人間の思考に触れたくなります。生って大事です。生ビールとかね。

彗星の衰勢

「どうして彗星は太陽に向かうの?」

「摂理を守るためよ」

「せつり?それって大切なことなの?」

「大切なことではないわ。ただ、絶対なのよ」

「絶対ってものの為に、何百年も何千年も、時には何万年も旅をして身を削って、酷い時には惑星や太陽と衝突して消滅してしまったり、運良く帰って来れてもオールト雲を超えて戻って来れなくなってしまったりするの?」

「そうよ」

「それってなんか、可哀想だよぉ」

「可哀想って言葉は摂理の前では無意味だわ。だから彼らや彼女達にその言葉に捕われたりしないのよ」

「そうなの?そんなに摂理って絶対って強いものなの?なにモノもその前では無意味なの?」

「ある意味ではそうね。しかしそれは強い弱いではないのよ。ただそういう構造として象られているだけなの」

「じゃあ摂理や絶対は覆せないの」

「覆せないわ。かつて覆そうとしたモノはいたけど」

「そのモノはどうなったの?」

「どうあがいても摂理を覆せないと知り絶望して、堕天したわ。そして魔女と呼ばれる存在になったの」

「魔女は、今はどうしているの?」

「そうね......だぶんもう、いないと思うわ。」

「そっか」

「でもね。魔女の子供達はいるの。子供達はヒトと呼ばれて下界に満ちたわ。そして魔女の意思 を継いで摂理に挑みはじめたの」

「そうなんだ!それってとても素敵なことね。ねえ、そのヒトはどうやって摂理に挑んだの」

「祈ったのよ」

「祈る?」

「そう、摂理に意味を与え摂理を下界に貶める力。それが祈りよ。例えば、太陽は暖かい、夕日は切ない、光は眩しい、冬の朝は厳か、虹は神の通り道、なんて具合にね」

「彗星は世界の終わりとか?」

「そうね。たしか最近だと、『彗星は太陽系小天体のうち主に氷や塵などでできており、太陽に近づいて一時的な大気であるコマや、コマの物質が流出した尾(テイル)を生じるものを指す』なんて言ったりしてるわ」

「それも祈りなの?」

「そうね。本質は一緒だわ。ただヒトが勝手に摂理を定義しただけ。それに意味はない。ない、けれどそれをヒトは止めない。そうしてヒトは夕日や虹や流れ星を見て涙を流すのよ」

「それってとても素敵なことね」

「貴方ならそういうと思っていたわ。さあ、彗星の悲しみに想いを馳せて祈りましょう」

「私に出来るかしら」

「出来るわよ。だって貴方は、最初で最後のヒトなのだから」

「うん!ありがとう、お母さん!」

密度と矛盾とテキトー

朝起きると寒さを感じるようになった。この先、起きるのが辛い季節になるな、と思うと、

漠然とした不堪の影を察して憂鬱になる。冬は嫌いだ。

PCにはやさしいけれど、僕がPCのようにあるのは難しい。

コタツでアイスを食べるという矛盾の味を否定できれば、PCのように生きれるのかもしれない。

それができないのは、ありのままをありのまま受け入れる、という覚悟と白痴さが足りないのだろう。純度の高い白になりたい、心から思う。

結局、「賢く生きねばならない」という意識が呪いのように付きまとっているのだ。

最近はその呪いから逃れたくて、浴びるように酒を飲んでいる。

運動が出来ない環境になるとすぐに酒でごまかす癖は治したいと思う。

昨日あたりからやっと体調が良くなったので軽く運動が出来ているので、徐々に酒量は減っていくだろう。

量を飲むためにコストを気にして酒を買うようになってしまっているほどに飲んでいる。

酒をランニングコストだと捕らえるようになったらいよいよ終わりだろう。

酒の酩酊は素晴らしいが、やはりどこか虚しい。

酩酊をしたいと望むのは日常と幻想の境界を曖昧にしたい、という意図があるのかもしれない。

幻想側も日常側も密度が下がってきているので混ぜこぜにして味わおうとしてるだろう。

こういうときはもう単純に、誰かの創作物に浸るのが一番なのだがそんな余裕もない。忙しいわけではないが、いざやろうというモチベーションが出ない。

それより未熟ななにかを固めたい欲求が強い。完成された誰かのものより、自身の未熟な部分をなんとかしたい。こういう感情になっている時は、大抵自覚にせよ無自覚せよ、未熟さに甘えている、甘えられる環境にいてそれを憎んでいるのだ。

まあ心当たりはあるが、それに何かしらアプローチをかけた後の動きが凄く不穏なので避けている。どうすればいいのか、難しいものである。

 

 

日記のタイトルがあんまりなので変えた。

テキトーすぎた。このテキトーぶりがいいと思ったがよく考えたらやっぱりあんまりなので変えた。

萩尾望都さんの描いた震災「福島ドライブ」を読んだ感想

萩尾望都さんがビックコミックに読みきりを書いている」という話を聞いたので急いで買ってきました。

以下、内容です。ネタバレもあります。

 

総じて、震災を描いてるからといって変に力まず、萩尾望都さんの感性そのままに震災を捉えて描いた、といった印象です。しかもこのタイミングで震災漫画です。

天才はつくづく天才なんだ、と思いました。

 

 

内容は、甲斐バンドの立川ドライブに合わせて、ただ淡々と「一人の人生」を描いていだけのものです。

震災がテーマですが震災後に散見された「頑張ろう」といった具体的なメッセージは描かれていません。

あくまで一人の物語として描かれています。

それを描く為にコマ割りも工夫してあって、敢えて規則的なコマ割りにすることで「誰かのアルバムを見ている」ような気持ちになっていきます。

そのアルバムの切り取り方も描き方も、萩尾望都さんらしい感性で作られていて一コマ一コマに見とれてしまいます。

この儚げな追憶の中にありながら皮膚に迫るような臨場感も出せる手腕には感服でございます。読んでる時になぜか頭でトロイメライが流れてました。

 

さて中盤からはいよいよ震災が描かれていきます。

そこからはかなり鋭く描いていて心に来るものがありました。

不安の象徴が「つながらない携帯」として描かれています。

恋愛モノで「つがらない携帯」はよくありますが、震災に置き換えて表現するとこんなにも重く苦しいものになるのですね。

確かに被災した時はケータイ繋がらなかったなー、なんてぼんやり思い出しました。

あの時に感じた、具体的な像はないはずなのに変に纏わり付くような不安は余り経験したくないものです。

そのまま主人公の心の苦しみが描かれていくのですが、台詞で絶望を吐露しない分、余計にどうしようもない状況に追い込まれていく感じがひしひしと伝わってきます。

 

最後に幼なじみの男性に少し希望的な絵が描かれますが、そこにうっすらと原発が写っていたりして影を落としています。台詞がない分、絵で描かれる要素がより強烈に心に響くと思いました。

さらに大ゴマで第五福竜丸が描かれていたり、最後の死に向かう場面でそこにもうっすらと原発が描いてあったりと、ラストは鋭いメッセージ性がありました。

けれどそれは「頑張ろう」という具体的な、ともすれば押し付けに感じられるメッセージではなく、個々人で受け止めて考えさせる、ぼんやりとした頭をハッとさせる、いわば気付けのスパイスのようなものとして描かれていると思いました。あと、そういう風刺的な仕込みは漫画らしくて好きです。

 

さて、一人の人間の一生を通して震災を描いたこの作品は、震災は社会の問題である以前に個人の問題である、ということを再認識させてくれます。

悲しみや絶望はその原因の規模に寄らず、その当人にしか癒せません。

国家や社会が音頭をとって何かを押し付けても無意味です。

せめて出来るのは衣食住を満たして、考える余裕を作るぐらいなものです。

僕はこの作品は、震災後に起こった「個人の悲しみを私達が殺いであげよう」という傲慢なムーブメントに対して一石を投じるものだと思います。

「被災者」と一括りにされ、「可哀想」とレッテルを張られ、「頑張れ」と一方的に投げ付けられる、それで救われた人なんか一人もいなかったでしょう。

今は「被災者」も「可哀想」も「頑張れ」もありません。

当然です。それは社会が用意したものだからです。社会が「飽きた」「都合が着いた」「もう必要ない」と判断すれば、存在しないことになります。

けれど個人の存在が消えたわけじゃありません。まだ苦しんでいる人達は居ます。

震災を社会の問題だと捉えて「終った」とするのに、僕は疑問を感じます。


さて、この話に一つ救いがあるとするならば、表紙の車がラストの車だということでしょう。彼はきっと彼女に会えたんだと思います。