風邪菌の神性は夢想とシャーレの狭間にある
とても体調が悪い。というか、風邪を引いている。
頭に霧が纏ったように思考力が落ちているし、鈍い頭痛が気になってしょうがない。
なにより咳き込む時にタイピングのリズムを崩されるのが何より不快だ。
そういった具合に風邪は人の精神的肉体的スペックを普段に比べて著しく低下させる。
いわば人間のデチューン状態だ。
そういえば機械のデチューンには意味があるが、人間のデチューンに意味はあるのだろうか、僕はあると思う。
例えばそうだな、僕には幼なじみがいる。
面倒見がよくて料理が上手で、そしてキュートだ。
その状況ならば意味を見出せる。それはこうするんだ。
僕はわざと咳き込んで喉を弱らせてから、彼女に電話をかける。
そしてこう伝える。
「今日までにどうしても送らないといけない郵便物があるんだけど、風邪を引いてしまって歩くのもしんどいんだ。埋め合わせはするから代わりに投函をお願い出来ないかな」
と息も絶え絶えに、合間に肺をならす音を入れれば完璧だ。
あくまで郵便物が目的、ということが重要だろうね。
看病してくれ、は含みがありすぎるし図々し過ぎる。(郵便物頼むのも図々しいけど)
そして、これで本当に郵便物だけとっていくなら知人、何かしら買ってきてくれたら友達、家に上がって看病してくれたら......風邪菌をシャーレに採取して培養し、それを神棚に飾って毎日拝みたい気持ちになるだろう。
そして風邪菌は僕が毎日上げる祝詞を聞きながらすくすく育ち、新種の風邪となって僕を殺すだろう。
そうして考えてみると風邪にも意味がある、わけではないが意味を見いだす事が出来る。
機械のデチューンは人が目的を持って行うので生来に意味がある。
しかし風邪には意図はなく、だた細菌に感染しただけだ。
いわば通り魔にあったようなネガティブな状況だろう。
しかし、それに意味を見いだし、対処することが出来る。
怪我や病気や死の苦しみが襲ってきても、人はそんなネガティブな状況を思想や妄想、あるいは具体的に宗教や哲学でなんとか対応してきた。あるいはもっと大きく自然災害なんかもそうだ。
想像の力があれば何だって意味を見出して楽しめる。
「何だって」は絵空事だろうけれど、それでも大抵のことはなんとかなるんじゃないかな。
これから先、いかに病理が解明されてシャーレの中が透明になったとしても、妄想で立ち向かう力が人の最後の砦になる、と思う。
風邪を引いて辛い想いをしているときは素敵な想像力で幼なじみを作り出して楽しもう。
きっと虚しい気持ちになるから。