電脳トレモロ

君の囁きに合わせて、僕の電脳が震えた。

彼女は何に叛逆したのか。劇場版 魔法少女まどかマギカ新編の感想

まどマギ見てきた。以下、ネタバレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

本来は

「ほむらの乙女チック宇宙大革命」

ってタイトルにしようと思ったんだけどモロネタバレなので止めておいた。

以下、内容。

 

初日に見てきた。暫くは自分の中で消化したかったので文には起こさず、改めて今日考えてみる。「反逆の物語」とはなんだったのか。なにに対する「反逆」だったのか。

あ、マミさん好きなのでマミさんに対する言及は多めになるかも、いやならないかも。

 

先にまとめると、魔法少女物語の"形式"に対するカウンターがまどかマギカだったが、今作はその側面をさらに尖らせて裏側まで突き破っちゃいましたって話。

はじめはおまけシナリオ的なものを予想していたので、これは存外に嬉しかった。

まあ映画を見に行く際に一緒だった人に「虚淵さんが心を強くして見に行った下さいって言ってた」と言われたので全く予想してなかったと言えば嘘になるけど。(敢えて一切の前情報を遮断してたのに見る直前で辻斬りされるとは思わなかった)

 

さて、魔法少女物語の形式を意識に据えている以上、魔法少女の象徴として描かれているマミさんはやっぱり蚊帳の外だった。(とりあえずマミさんから言及する)

ただマミさんはそういったカウンター魔法少女的な流れから排斥されるが故に純度の高い魔法少女として描かれている、とも言える。闇の中で輝く光は尊い。

またTV版のように具体的な描写(3話のアレ)で魔法少女的形式の終焉を描かなかったのは良かった。

今回はああいったびっくり箱は用意せずに、一歩一歩じわじわと運んでいく構成で作ってあって視聴者も含んでいるものを予想出来るように作っていた。

劇場版という制約上、あまり凝った構成にすると視聴者置いてきぼりの危険もあるし、2時間で回収されるのにそこまで凝る必要性も感じられないだろうから、そうしたのかも。

あとはTV版まどかマギカで鍛えられた視聴者はどうせ最初から穿ってくるだろうから、むしろ逆にシンプルにしたのかもしれない。

 

まあじわじわ進んでいく分、こっちのライフはガンガン削られるのだが。

序盤からガッツリ魔法少女やってて、でも所々でキナ臭さ(あからさまに箱庭感を出してたりとか)を仕込んでくるので「ああ、この子たちこんなに楽しそうに魔法少女やってるのに……ああ、ああ」と一々心が痛まされる。

そのガッツリ魔法少女やってる部分がまた素敵で可愛くて、余計に心に来る。

特に言葉遊びで敵を倒す場面とかもう、魔法少女しすぎてて魔法少女メーター振り切れて逆に魔法少女じゃなくなるぐらい魔法少女してた。

変身シーンもセーラームーンみたいなトラディショナルな魔法少女の要素を取り入れつつ、美術に凝った趣向も入れてて乙女エンジンフルスロットルだった。

あの序盤の魔法少女やってる部分だけ切り出してスピンオフにしてくれないかな、ってぐらいに素敵。まあそれはまどかマギカじゃなくなっちゃうんだけど。

あとこれは序盤に限ったことじゃないんだけどデザインや演出が新境地を描いていて、常に新鮮な気持ちで見ていられた。ちゃんとまどかマギカらしさは踏襲してるんだけど、でもデジャヴュ感が全然沸かなくて、むしろまどマギの新しい像が脳に結実されてく快感ばかりあった。

 

そして中盤以降、まどかマギカはまどかマギカとしてあるべくに流れがどんどんキナ臭くなっていく。

中盤からは各キャラに見せ場を持たせてあって、その見せ場がまたキャラごとにマッチしていてうまいなーと思った。現実主義で冷静な杏子、乙女で華やかなマミさん(でも蚊帳の外)、無自覚震源地のまどまど。それぞれらしい展開で良かった。唯一、さやさやだけは理由があってさやさやらしくなかったけど。というか、序盤からもう全然さやさやっぽくなかった。序盤がそれぞれおかしいのはみんなそうだが、特にさやさやはおかしさ満点だった。きっと円環の理に導かれた後、色々悟ったんだろう。あのさやさやは解脱さやさやと呼びたい。

あ、中盤のハイライトはやはりマミほむのガンカタでございます。

 

んで中盤のなんやかんやが終った後、いよいよほむさんが走り出して魔女化の急展開。

そこら辺はまあ予想通りだったけど、僕はあのまま救済なしで終るかなーとも思ってたので(まどかの告白もあったし)、救済の展開になったら素直に嬉しくて号泣した。

救済なしのエンドも奇麗に終っててアリだと思ったけど、やっぱり「みんなで救済」展開はもう無条件で泣いてしまう。そういう展開はずるい。いいとか悪いとか以前に、ずるい。

 

ほむほむは、全ての魔法少女たちを見捨てて自身の欲の為だけに突っ走ってたわけで、その欲に喰われて自縄自縛になるのは当然の流れだ。

そんな業の深い存在ですら赦し救う魔法少女達の姿は「夢と希望と愛」の象徴として、「魔法少女のあるべき姿」として強烈に確立される。

 

さて、ここまでの構図を立ち返ってみて見ると、TV版と同じ流れだということに気付く。

序盤はしっかり魔法少女→少女達の葛藤(映画ではほむらだけ)→絶望→魔法少女的力によって救済

 

しかし、結末は違った。さらにその先が用意されていた。

その結末は端的に言えば、TV版の結末の否定である。

 

さてここで、最初の疑問に戻ろう。反逆の物語とは何か。

反逆とは「魔法少女物語の形式へのカウンター」が起こった後、けれど最終的には魔法少女形式へ立ち返る、その流れに対する反逆である。つまり、「まどかマギカ」それ自体に対する反逆だ。

魔法少女形式の換骨奪胎として、より人間らしい欲求や願望、特に自己本位的な部分が描かれていたまどかマギカだが、最終的にはある意味非人間的ともいえるまどかの自己犠牲によって従来の魔法少女形式へと立ち返る。自己本位で始まった物語が魔法少女的規範、ルールによって回収されたのである。

つまり、まどかマギカの最終的な結論は「博愛や平和の象徴として固定された魔法少女像に立ち返ること」である。

しかしほむらはそれを否定した。

「魔法少女はかくありなん」とする価値観をひっくり返した。

ほむらはその原動力を「愛」と定義した。

その独善的で自分本位の想いを「愛」と呼ぶのはとてもしっくりくる。

 

一緒に見に行った連れはあの悪ほむに心を痛めていたけれど、むしろ僕は拍手喝采したい気分だった。

魔法少女像の崩壊によって少女自身の手に委ねられた「自身の在り方」は、少女像の再生によって一度取り上げられ、「理想の在り方」にされた。

けれど少女は自らの意思と力でふたたび、「自身の在り方」を少女の手に取り戻した。

それは魔法少女像の押しつけから抜け出した一人の少女の、正義も大義もないただ少女本位の想いによってなしえた、宇宙規模の乙女チック大革命なのである。

これこそ、真に少女の為の物語である、といえよう。

 

まだ書きたいことも考えていることもあるけれど、寝かせた方がいいので一旦ここでしめようと思う。