電脳トレモロ

君の囁きに合わせて、僕の電脳が震えた。

「亜空間相撲レスラー」という恐るべき者達

id:luvlifeさんの

ハテナの毎日

  

を拝読させて頂いたとき、僕の中であるカテゴリーに属している人々のことを思い出しました。それが「亜空間相撲レスラー」とカテゴライズしている方々です。

 

僕は元来、「人には類型はあっても定型はない、定型で人を判断するのは相手に対して失礼だ」と考えているので、カテゴリー分けってそんなに好きじゃないんですけれど、でもしておかないと円滑に磨いた人生の輪郭がデッコボコになるのでやむを得ずしていたりします。いや、考えてみると好きじゃないとか言いつつ結構していますね。ううむ、反省すべきかな。でも、類型を纏めてカテゴリーを作ることはあっても、それで人の全てを評価したりはしないように気を付けているので大丈夫、ということにしておきましょう。あ、そうか分かりました。多分、サンプル集めてそこからパターンを解析して類型を見出し、それを元に抽象化された概念、つまりカテゴリーを生み出すっていう一連の流れが好きなんです。これは現実世界をプログラミングに落とし込む作業と一緒です。ただ、その逆は嫌いです。ジャンルから作品を判断する、とか。

 

閑話休題

 

さて、このタイプを僕は「亜空間相撲レスラー」と呼んでます。

(ん、なんか似たような話最近書いた気がするな。文系説教ジジイのときだ)

知識ファシストという存在

 

亜空間相撲レスラーはとにかく負けることが嫌いです。どんな状況でも相手を打ち負かすことしか考えていません。彼らは全盛期のナポレオンをも顔負けの常勝を望んでいて、故に負けそうな土俵では相撲を取らないのです。そういう土俵で相撲を取ることになったときは、全く別の土俵を亜空間から召喚してそこで相撲を取ろうとします。なんともはた迷惑な四次元ポケットを持った存在、それが亜空間相撲レスラーなのです。

 

分かりやすい例を挙げますと、あるとき僕はまだ未熟だけど未来を感じさせる技術について話す機会がありました。

その時に聞いていた相手が、「それでその技術は儲かるの?」と言い出したので「儲かるわけがないです。これはそういう段階にないです」と答えると、そこからは延々とコスト意識の重要性をはじめとした経営観についての話をされることになりました。確かに経営観は大事ですが、その時はそういった場ではありませんでした。また、この技術は経営とは別の位相において素晴らしいものなのに、それを経営的に不出来だからとして貶されたことに、僕は名状しがたい不快感に苛まれました。これが亜空間相撲レスラーです。

コミュニケーションは即ち戦いである、という原理主義を掲げているのか知りませんが、とにかくこの手合いはコミュニケーションをする際になんとか相手を組み敷こうとしてきます。

 これがもう、ほんっっっとうにめんどくさいのです。その面倒さは、容器から零れて飛び散った爪楊枝を元の通り奇麗に並べる行為を遥かに凌駕します。

 

id:luvlifeさんの日記に出てきた客の男性も、客と店員という土俵をどこまでも持ち運んでそれを笠に着て相手を威圧していました。これも典型的な亜空間相撲レスラーですね。

そもそも客と店員は、サービスとその対価という関係性である以上、どこまでも対等であるべきです。サービスが対価と正当に相殺されてこその近代経済です。それを壊すのは封建時代に戻ることに他なりません。僕らは封建時代を乗り越えた先人の意思を継ぐ為にも、経済によって与えられたものはそれに見合った形でしか捉えてはいけないのです。ただ現状は対価と見返りのバランスが悪いってことが結構ありまして、その場合は不如意なーと思いつつ、後ろめたかったり憤ったりしています。例えばコンビニの業務はその対価に対してサービスが過剰だと僕は思っていますので、コンビニ店員には割と恐縮してしまいます。そうするとなんとも具合が悪いので、せめてもの労いとして会計の度に「お願いします」と「ありがとうございます」は必ず言うようにしてたりします。(まあ別にコンビニだけじゃないのですが)そうすると、たまにぎょっとする店員がいて面白いです。逆にちょっとお高い店(といってもたかが知れてますが)に行った時は、コート取りにくるまで入り口から動きませんし、椅子を引くまで座りません、汚したり落としたりしても基本的には(盛大にグラスをひっくり返すとかしなければ)自分では対処しないようにしています。なぜならそこが対価に見合ったサービスを提供する場所だからです。むしろ勝手にやってしまうことのほうが相手の力量や信頼を否定していることになり礼を失すると僕は思っています。

 

閑話休題

 

つまり客と店員という社会的には逆いにくい関係性をプライヴェートまで平気で持ち込むのが亜空間相撲レスラーなんですね。あ、今どこでも人間関係ぇーって大山のぶ代氏の声が頭に響きました。

また一緒にいた男性も下卑た台詞を平然と吐く人物に面を食らい、自身の尊厳が損なわれたような思いになって、その諸元をid:luvlifeさんに求めてその腹いせで辛辣に当たったように思えますね。(当事者じゃないのにこういうこと言ったら駄目だね)こういった不条理な状況に陥った時に身近にいる優位に立てる人物に対して、攻撃性を顕著に表すのも亜空間相撲レスラーの特徴です。ストレスの原因を内在に求めて自己解決する、という経験に乏しいのかもしれません。あと、セックスという一般的には、男性優位とされる行為に持ち込もうとした点がなんかテンプレ臭くて、ちょっと文学的だなと思いました。

 

でもセックスって情念的には女性優位ですよね。男のセックスは内罰的、内向的、閉鎖的、自己完結的だけど、女性はその真逆です。外部から受け入れるってのは他者の存在をより高次から肯定出来ないと行えなえませんから。ゆえに女性に加虐心を燃やす男性は、どこまで自分が許される存在であるかをパートナーを利用して計ろうとするわけです。まあ子供なんでしょう。だだを捏ねてる子供と一緒。結局、男は情念においては女性に勝てないと思います。

ただ情念ではそうですけど、セックスの人間的本質は対等だろう、と僕は思ってます。割と本気でこっちの流れに進んでほしいんですが、何故か世の人々はセックスに不平等を持たせてそれを有り難がってるのです。そもそも女性・男性という対立構造は、その構造が自明であれば本来、その構造を改めて定義する必要はないはずなんです。自明は自明として、そのまま扱えばいい。原始的な生物なんかはそれを地でいってて、性別はなく個々の振る舞いとして繁殖しています。女性も男性もただ多様化の果てに獲得した繁殖手段の一様式として捉えてたらここまで話はこじれなかったでしょう。そうだったのなら、ただセックスして終わりで男女という役割分担の"定義"もいらなかったのです。拗れだしたのはセックスに繁殖以上の価値を見出そうとしたからです。その過程で、セックスに置ける男女の役割や立ち位置が徐々に定義されていったのでしょう。これ自体は実に人間らしい部分なのですが、それに生物的な構造が癒着して、いつまでもそれが剥がれずに爛れちゃってるのが現状なんですね。僕が思うに、ここまでどうしようもなく"繁殖"を弄んで冒涜したんですから、開き直って皿まで喰えよって話なんですよ。つまり、繁殖手段からの脱却した人間のセックスにいつまでも繁殖手段的な要素を残すな、繁殖を残す為に男女に役割を与えるな、ってことです。セックスは、個々が個々の関係性の上で、それぞれの振る舞いを追求していった結果、それらが重なりあって結んだ像ってのが理想なんです。その理想の場所から展望すれば、LGBTは特異なモノではなくなります。全てのセックスは平等に特別な行為としてそこに在ります。

 

閑話休題

 

まあこんな感じでひじょーにめんどくさい亜空間相撲レスラーさんなのですが、その対処法はあるのでしょうか。

 

はい、一応、あります。一応ですが。

 

それは、

 

 

おだてればいいのです。それで終わりです。

相手は気分を良くして笑顔でバイバイしてくれます。負けるが勝ちと言いますが、論旨をずらしてくるような相手に対してはそれを指摘するよりも、そのまま受け入れて適当に言葉尻を拾ってあとは褒めていればいいのです。

しかし、その煽ててる時間が本当に不毛で、まるで中二病罹患者が昼休み直前のもっとも気だるい授業中に窓の外を見ながら「こんなことやっても社会に出ても何の役にも立たないのによ」と心の中で悪態をつく瞬間に匹敵するほどの不毛さです。あと下手に煽てるとなつかれることもあります。そして、ちょっとでも蔑ろにするととたんに攻撃的になって困るのです。お前はときメモの爆弾か、と。

 

結局、そういう相手とはなるべくエンカウントしないようにするしかありませんね。

ああ、世は無情なりや。ただ花を美しいと告げることすら石が飛んでくる。

しかし、そういった人間もまた人間の多様性に貢献している貴重な仲間なので否定も出来ないのですよ。というか、ある部分ではとても愛していたりするです。嫌いじゃない、嫌えるほど人間は面白くないし面白いのです。うーむ、難しい。

 

 

あーあ、しっかしバシルーラ覚えたい。(中二病

 

全く閑話休題。 

はてなブログ徘徊してたら、皆様、結構ちゃんとしたhtml書いてらしてて驚きました。私のあまりに汚いブログが申し訳なく、とりあえず<a>タグを付けさせて頂いたのですが、そこですでにかったるくなってしまいましたので結局こんな見づらい感じでございます。